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 夜も更けて来たが、祭の盛況ぶりは未だに衰えを見せない。こうやって遅くまで騒ぎ通す理由が無いから、ここぞとばかりに盛り上がっているのだろう。田舎は他に娯楽が無いから、と穿った見方もあるけれど、単に羽目を外せればどこの誰でも同じなのだろう。
 最初に集まった面々もまだ帰宅した者はほとんどいない。いい加減練り歩くのは疲れて、そこかしこにたむろってだべり始めてはいたが、まだまだ話題も尽きてはおらず、少しの盛り下がりも無い。
「ところで悠里さん。浴衣の時には下着を着けないって本当ですか?」
「さあ、どうかしら? 確かめてみる?」
「是非とも。あの辺の暗がりで」
「その代わり、裕樹君が先に見せるのよ。この明るい所でいいから」
 この会話に成美は一睨みするものの、あまり力が持続せずすぐにおずおずと視線を落とした。怒り難いと思っているのだろうか、もしくは単に疲れているのか。
 流石に往来で酒を飲むようなアウトローな事はしていないが、自覚の薄い理性の疲れ、要は悪乗りはみんな始まっていた。下らない話題や、普段なら空気が冷え切るために避けるネタも恐れずに繰り出している。聞く側も笑いのハードルが下がり、もはや何がおかしいのかも分からずに笑っている感すらある。こういう時は突然糸が切れたように目が覚め、あっという間に解散となるものである。果たしてそれは何時頃訪れるのか。そんな事を頭の隅に思い浮かべていた。
「あの、裕……じゃない、えっと……狐様!」
 いきなり珍妙な呼び方をしたのは浩介だった。一瞬それが誰の事か分からず、振り向いた先で浩介と二呼吸ほど無言で見つめ合ってしまう。
「ちょっと、浩介君。それは幾らなんでも誰のことか分からないよ」
「え? あ、すみません……。お忍びですから、名前でお呼びするのはいけないのかと思いまして……」
「いや、それは分かるけどね」
「いいじゃない、それ。私もそう呼んでおけば良かったわ」
「やめて下さいよ、悠里さん。それよりどうしたの?」
「実は屋敷から早く戻るように連絡が来まして」
 そう浩介が自分の携帯を示す。その呼び出しは今し方の事のようだ。
「え、まさか祖母ちゃんにバレた?」
「いえ、違います。自分への用事です。急用が出来たので戻るように言われて。ですから、申し訳ありませんが自分は先に失礼させていただきます」
 浩介はまだ中等部ではあるものの、緒方家の使用人である。そのため学業と仕事と両方に追われる生活をしており、非常に多忙である。同年齢時の自分を思い返しても、学業も家の手伝いも何一つまともには取り組んでいなかった。比較対象が悪いせいもあるが、ともかく浩介は自分よりも遥かに責任感が強く大人びた人間なのである。
「大変だなあ。いいよ、先に帰ってて。こっちは大丈夫だからさ。帰り道くらい分かるから。いざとなったら成美ちゃんもいるし」
「すみません。それでは成美さん、後はよろしくお願いします。失礼します」
 浩介は慌ただしく二度三度と礼を繰り返し、下駄を鳴らしながら走り去っていった。それほど急ぐとは一体どんな指示が来たのかと疑問に思ったが、思い返してみれば浩介は些細な仕事でも全力で取り組むため、移動でもよく走っている。案外大したものではなかったりするかもしれない。そう思った。
「浩介君って案外面白いのね。真面目なだけと思ってたけど」
「そそっかしいんですよ、割と。でも、ああいう真面目さは俺も見習わないとなあ」
 浩介が帰った後、釣られるように数名が帰宅した。みんな帰るきっかけを待っていたのかもしれない。今残っているのは、初めから遅くまで残っているつもりだったメンツという事になる。けれど、単に帰るきっかけが違うだけで、来る時が来れば案外あっさり帰るものだ。
 しばし談笑に更けっていると、徐々に人通りも減ってきた事に気が付いた。時刻も夜十時を大きく過ぎている。前に住んでいた所では、十六歳前後で帰宅時間が条令で決まっていたような気がする。深夜徘徊で補導された友人もいたが、白壁島ではどうなっているのだろうか。少なくとも、夜回りをしている警察官は見当たらない。
「あれ?」
 不意に頭頂部を冷たいものが襲い掛かる。空を見上げても真っ黒な夜空が広がるばかりで何も見えはない。見えないという事は曇っているのか、白壁島は夜空で星が見えるはずだが、そんな事を思っていると、今度は仰いでいた額を冷たいものが襲った。
「もしかして、雨?」
 皆を見渡すと、同じように真っ黒な空を見上げながら小首を傾げている。受け皿のように手のひらを差し出すと、ほんの少し待つだけで冷たいものがそこへ落ちて来る。やはり雨が降り出してきたのは確定的らしい。天気予報では、この先三日は晴れ渡ると出ていたはず。しかし雲の流れでも変わったのだろう。祭りの始まりに降り出さなかった分、マシと言えるだろう。
「本降りになりそうね。みんなも帰るようだし、私もそろそろ帰るわ」
「うちまで送っていきますよ」
「いいわよ、私の家は近いから。それに狐が送り狼になるかもしれないもの」
「狐でも神の使いだから紳士だと思いますよ」
「その紳士は成美ちゃんを送ってあげなさい。それじゃあまたね。今度デートしよ」
 そう言い残して悠里は足早に立ち去っていった。家が近くならそれほど急がなくても良いのではないかと思ったが、雨脚は見る間に強くなり始めている。それに連れ周囲も次々と去り際の挨拶だけで逃げるように帰り始めた。本降りまで余裕もあまりなさそうである。
「見上さん、私達も急ぎましょう。濡れてしまう前に帰りませんと」
「そうだね、急ごう」
 俺は途中ではぐれぬように成美の手を引いて屋敷に向かって駆けた。屋敷までは歩いて行ける距離ではあるが、走り続けるほど短い距離でもない。しかし雨脚は確実に強まっているため、途中で足を止める暇は取れそうになかった。俺は元より、成美も大きく息を切らせながら屋敷へと急いだ。