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 ようやく屋敷に到着すると、雨もいよいよ本降りになっていた。大分服も濡れはしたが自然に乾く範囲である。あと十分も遅ければ、おそらく絞れるほどまで濡れただろう。
「こんな事になるなら、浩介君と一緒に帰った方が良かったね」
「仕方ありません。こんな急に降って来るとは分かりませんから」
 すぐに部屋へ入って何か温かいものでも飲みたかったが、その前にやる事がある。まず裏口近くの暗がりに隠していた普段着を探す。服は丈夫な紙袋に丸め込んでいたが、雨の跳ねない所へ隠していたため辛うじて濡れていない。俺はすぐに着替え始めた。
「おっと、そうだ。メールメール。水野さん、っと」
 そしてもう一つやらなくてはいけないのが、水野さんとの連携である。こちらが帰って来たタイミングを伝え、安全に中へ手引きして貰うのだ。今裏口に着きました。そう簡潔な文面で送信する。
「あの、見上さん……。実はまたお願いがあるんですけど」
 ふと成美がいつもの控えめな口調で訊ねて来た。着替えるために物影いるこちらからは表情は窺えないものの、どんな表情なのかぐらいは口調から容易に想像がついた。
「ん、なんだい?」
「近い内でいいので、どこかに一緒に遊びに行くと言うか……買い物とか、その……」
「ああ分かった、デートだね。いいよ、うまく連れ出してあげるから、心配しないで」
 しかし、普段のような叱責や歯切れの良い返答のどちらも返っては来なかった。成美は複雑そうに小さく唸るだけで、どちらと答えるどころか胸中すら窺い知れない。普段とは違う妙な反応である。どう問い直そうかと首を傾げていたが、さほど間も置かず逆に成美の方から唐突に訊ねてきた。
「もし見上さんは、同じ事を他の誰かに言われても、今のように答えるのでしょうか?」
 神妙というよりも、もっと鬼気迫った口調の成美。半端な答えは許さないという脅迫めいたものさえ感じられ、俺は背筋を俄かに緊張感で真っ直ぐに伸ばした。
 尋常ではない。どこか責めるような様子を俺は感じ取った。普段から何かと言動をたしなめられる事はあったが、こうも露骨な攻勢では無い。そもそも、たしなめられるだけの理由があっての小言なのだ。
 把握出来ていない状況なのだろうか。俄かに不安を覚えた俺は、すぐさま着替えをまとめ物影から成美の前へ姿を表した。
「どうしたの、急にさ」
 その問いに成美は、初めは何かを言いかけようとするものの、何も言わず息を飲みそのままうつむいてしまった。今の言動に対する後悔の念が良く分かる表情だった。それだけで俺は、次の言葉を続ける事が出来なくなってしまった。
「すみません、またおかしな事を言ってしまいました。忘れて下さい……すみません」
 成美はか細い声で謝りながら頭を下げる。しかし俺は何と言っていいのか分からなかった。成美の言ったことが本当の意味でおかしな事では無いことを分かっているのと、それに対する無難な回答を持っていなかったからである。
「あの、私は先に戻りますね」
「ああ、うん。あ、さっきのデートだけどさ、明後日辺りはどう?」
「あ……はい。大丈夫です」
 成美はか細い声で短く答え、そそくさと立ち去った。本当に大丈夫なのか、本心では無い返答ではないのか、成美の今の一言で俺は幾つものを不安を抱えてしまった。あくまで疑問ではなく、不安である。また成美に本音を押し殺させてしまったのではないか、そんな不安だ。
 祭の時は楽しそうに笑っていたのに。何故、急にあんな事を言い出したのだろうか。単に前々から何かしら兆候はあって、それに俺が気づかなかっただけなのではないだろうか。
 別れ際に言い放った悠里の言葉が重くのしかかる。まさか悠里は既に気付いていて、あんな事を俺に言ったのではないだろうか。そしてその忠告も虚しく、俺はまた不用意な事を口にしたのではないか。
 今からでも悠里に相談するべきだろうか。こういう事は早めに手を打たなければこじれるばかりである。そう思い立った俺はすぐに携帯を構えた。
「あ、メールだ」
 直後、メールが受信を知らせるため小刻みに震え出した。開いて確認すると、先程水野さんに送ったメールに対する返信だった。
「少し待っていて下さい……? あれ、祖母ちゃんかな」
 どうやら屋敷の中は、今戻るのは良くない状況のようである。体も冷えてしまい早く温まりたかったが、水野さんの指示には従わなくてはいけない。
 仕方なく俺は自分で自分の両腕を抱き抱えて体温を少しでも保ち、水野さんの連絡を震えながら待った。