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 水野さんから二回目のメールが来たのは、今が真夏である事を忘れてしまうほどすっかり体が冷え切った頃の事だった。とうに本降りとなった雨は、地面へ染み込みきれない分が溢れ出して足元を浸蝕するまでに至っている。
 今か今かと待ち望んでいた末のメールだっただけに、水浸しの足は反射的に屋敷へ駆け込もうとした。しかし文面を良く見てみると、祖母はまだ就寝していないためくれぐれも物音を立てぬようにとあった。水野さんが俺が部屋へ戻るため引き付けてくれているのだろうか。そんな事を考えながら、静かに注意深く裏口から入る。自分の家なのに、まるで空き巣のようだ。そう思った。
「裕樹様、お待たせしました」
 裏口から入ってすぐに浩介が待機していた。浩介は濡れた靴を回収し、足を拭くタオルを出してくれた。どうやら水野さんの手回しのようである。
「そちらの廊下をお通り下さい。ただ、途中の間にはそよ様が水野さんと仕事の話をしておいでです。くれぐれもお気を付けて下さい」
 おそらくこれが水野さんの作戦なのだろう。仕事の話ならば祖母に気取られる事も無く引き付けておく事が出来る。後は話が終わる前に素早く部屋へと戻るだけだ。
 自室へ続く階段までには、どうしても通らなければならない廊下がある。よりによって二人はその廊下沿いの一室で仕事の話をしているとの事だった。
 そろそろと廊下を静かに素早く進む。そんな自分の姿に、子供の頃に見た泥棒のコントを思い出した。確か父親がやけにそれが好きだったのを覚えている。
 部屋に戻ると既に布団が敷かれ寝る準備が調っていた。出掛けと戻ってからと部屋の様子が変わる事には、未だ旅館に泊まっているような違和感を覚えてならない。金持ちの生活にはすぐに慣れるという説もあるが、自分には当て嵌まらないのだろう。庶民の子は一生庶民の思考のままだ。
「風呂の準備は整っていますが、お入りになりますか?」
「いや、今日は疲れたしもう寝るよ。明日の朝にする」
「では、温かいお茶をお持ちいたします」
 浩介はこちらの返答も待たずに慌ただしく下へ降りて行った。何か重要な用事があって早めに戻されたのだから、忙しいのであれば後回しでも良かったのだが。浩介がこちらの返答を良く聞かずに早合点するのは今に始まった事でもない。とりあえずやりたいようにやらせておこう。そう思った。
 冷たい服を着替え、綺麗に整えられた布団の上に寝転がる。久しぶりに長く走ったせいか、手足に気怠さが残っていた。目を閉じればこのまま眠りに落ちてしまいそうである。
 浩介が戻るまでは起きていよう。俺は意識して目を開けていた。しかし、遊び疲れがどっと押し寄せ、気が付くと眠気のあまりうとうととし始めていた。眠気を紛らわすべく、姿勢をうつぶせにしようと身を捻ると、胸の辺りに激痛が走り身悶える。首から下げている蓬莱様を挟んでしまったためだ。いつものように寝るために首から外し枕元へそっと置くと、改めて姿勢をうつぶせに変えた。
 悠里に成美の事で相談しなければ。ふと先程の成美の事を思い出し、ポケットから携帯を取り出してメールの作成画面を開いた。しかし、普段ならすらすら思い浮かぶメールの文面がどうにも決まらなかった。何度も書いては消し書いては消しを繰り返し遅々として進まず、段々と目を閉じて考え込む事に気を取られ始めた。確かに言葉には気をつけてなければいけない相談だけど、それ以前に眠気が酷くて思うように考えがまとまらないのだ。
 やがて今夜のメールは諦め、携帯を閉じて枕元に放り投げた。たまたま携帯は蓬莱様のすぐ隣に転がり、思わずそれらを同時に視界へ収めてしまった。直前まで成美の事を考えていたせいか、蓬莱様を見ることに躊躇いがあった。今日の行動が蓬莱様に見られていたと思うと、純粋に恥という意味で恥ずかしかった。何故、成美にちゃんと向き合えなかったのだろうか。冷静な今ならばそう自分を批判も出来るが、いつも少し深く切り込まれるとすぐに目を反らしてばかりいる。分かっているのに情けない姿である。元が軽い乗りであるだけに、真剣に人と向き合えないのかもしれない。そう思った。
 次こそはきっちり向き合ってみたい。いや、向き合ってみせる。
 枕元に置いた蓬莱様をじっと見詰めながら、そんな誓いを心の中で立てる。だが、そこまで深刻にならなければ人の目も見られないのかと、すぐに自虐的になり萎んでしまった。
 もし蓬莱様が本当に存在する守り神だとしたら、こんな時は一体どんなアドバイスをくれるだろうか。
 最後はそんな風に考え、誓う相手にすがってしまった。