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 ふと目が覚ますと、周囲は真っ暗で何も見えなかった。ただ激しい雨音だけが屋敷の外から聞こえるばかりで、妙に孤独感を煽られた。俄かに慌てふためき、よくよく自分の置かれた状況を思い出しながら、しきりに目を凝らして周囲の様子を伺う。程無くそこが自分の部屋である事に気が付き、安堵と苦笑の混じった溜息をつき肩を落とした。
 足元は見えなくとも、照明の位置ぐらいは肌の感覚で覚えている。布団から這い出て手探りでスイッチをつけると、途端に部屋が眩しくなった。目が慣れる頃には、自分がどうやって部屋まで戻って来たのか、その経緯もはっきりと思い出せるようになった。携帯を取って開くと、時刻は夜中の十二時を回っていた。どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。
 机の上には、水筒と湯飲みがお盆に乗せられてあった。浩介が用意したものだろう。布団をかけたのも恐らく浩介に違いない。
 水筒の口を開け湯飲みに注ぐ。熱い湯気と共に緑茶の香りがほのかに香った。布団の中で寝ていたため体が冷えてはいなかったが、熱いお茶が食道を下っていく感覚は心地良く、二杯も飲むと額にじんわりと汗が浮かぶ程に体がほてった。今は真夏で、その折に熱い物を飲むのは今までに無い経験である。この熱さが心地良く思うのは、おそらく外の雨のせいで季節外れの肌寒さを感じるせいだろう。
 さて、妙な状況になってしまった。普段の睡眠時間と朝までの時間とを計りながら、俺は腕組みで首を捻った。中途半端な睡眠ではあるものの、熟睡だったせいか眠気は無く、体もすっかり怠さが抜けている。このまま眠っても良いが、明日は特にこれといった予定も無く、出掛けるにしても今の時間でこれほどの雨ならば外は大分ぬかるむだろうから気分も乗らないだろう。
 素直に寝るには時間が惜しかった。眠くないのならば、何か普段やらないような事でもするべきではないのか。夜更かしのせいで日中に眠くなったとしても、明日は学校がある訳ではない。昼寝も気軽に取れる。
 しばしあれこれと考えた末、俺は水野さんのテキストを開き本来なら今日やるはずだった分の予習を行う事にした。水野さんならば、明日の授業は確実に遅れを取り返しに来る。いつものようにヘラヘラとしては、授業のスピードについていけなくなる恐れもあるのだ。解説無しでは分からない事も多いが、それはそれで何が分からないのかをまとめておくだけでも授業の進み具合は変わって来る。
 幸いお茶もあることだから、これが無くなるぐらいまでは進めておこう。後は明日の日中にでもやれば調度良いはず。
 取り組みが決まった俺は早速机に向かいテキストを開いた。お茶は湯飲みへ満たしておき、右手でペンを回しつつ時折左手でお茶をすする。それでもテキストの中身は順調に頭に入っていった。文章を読む事に集中出来ているからなのだろう。集中とはじっと動きを止めるものだとずっと思っていたが、人にはそれぞれ集中する方法があるのだと水野さんに教えられた。自分にとっては手遊びをしながらが一番集中出来る姿勢なのだろう。
 深夜に、それも自主的に勉強などと、白壁島へ来る前までの自分の生活からは考えられない行動である。にも関わらず、予習は自分でも意外なほど順調に進んでいった。勉強とは習慣であるから、最初に感じる苦痛を我慢して継続すればやがて苦痛では無くなると水野さんが言っていた。所詮は精神論だと真には受けていなかったが、こうして変異を実感するとある種の喜びすら覚えてくる。勉強が好きなんて病気じゃないのか。頭の隅に残るそれを、今までは理性だと思っていたが、もはや悪魔の囁きに変わりつつある。驚くべきは、自分のそんな意外な勤勉さだ。もっとも、そんな話を水野さんにした所で、必ずしも善人が貢献するとは限りません、などと深く釘を刺されるだけだろう。目に見える対外的な成果の無い内に自惚れるのは控えるべきだ。そう自分を戒める。
 丁度一つの区切りとしていた章題まで終え、湯飲みに残った温いお茶を一気に飲み干し、畳の上に寝転がった。その姿勢のまま携帯を手繰り寄せて時刻を見ると、一時を回ったばかりだった。思ったほど時間は経過しておらず、体力的にもまだ余裕がある。ならばもう一時間ほど続けようか。そう思い立ったのも束の間、不意に俺は尿意を覚えた。続きはこれの後にしよう。俺は立ち上がってそっと部屋から出た。
 緒方家の屋敷はトイレが一階にしか無いため、用を足すには幾つも階段を下らなければならない。普段はさほど気にも留めないが、今は皆も寝静まったはずの深夜である。生理現象は仕方が無いとしても、あまり堂々と足音を立てるのもはばかられる事だ。
 一階の階段から一番近いトイレで用を足し、洗面台で顔を洗う。夜の水周りはたとえ自宅でも不気味なものがあるのだが、緒方家は屋敷が古い分殊更それを意識してしまう。普通に廊下を歩くだけでも嫌な軋みの音が聞こえ、背後から誰かに付けられているように錯覚する。頭では分かっているが、やはり気分の良いものではない。
 早々に退散しよう。そう思い足早に階段へと戻っていったが、途中でよりによって廊下を曲がり違えた事に気付く。騒々しくならぬようにと明かりを付けないで歩いたせいだろう、暗闇に目が慣れていないのと見渡せぬ屋敷の広さと合間って、距離感を間違えたようである。しかし、今更電気をつけるにしてもスイッチの場所も分からず、声を出して使用人の誰かを起こすのもあまりにみっともない。このまま手探りで進むしか他に無いだろう。
 せめて、明かりの代わりに携帯を持ってきておけば良かった。そう後悔しながら、自分の勘だけを頼りに廊下を歩く。やがて目も暗闇に慣れ始め、辺りの輪郭がはっきりと見えるようになった。続いて見覚えのある一画を見つけ、頭の中に帰路が思い浮かんだ。ここはいつも朝食を食べる部屋の近くのようである。なら帰り道はいつも歩いているから、階段の位置はさほど遠くない。
 早く部屋に戻りたい。そして、今夜は気分が萎えたから寝てしまおう。
 そんな時だった。
「もう、自分は耐えられません……」
 差し掛かった廊下の片隅から一人の声が聞こえてきた。驚き背を震わせるのも束の間、良く見ると近くの座敷の一つから明かりが漏れ出ているのが分かった。誰かが座敷を使っている。それもこんな時間に。俺は息を飲んだ。が、にも関わらず足音に注意しながらその座敷へ近付いた。恐怖と好奇心が半々になった、そんな心境だった。
「いえ、自分の身分は弁えております。ですが、それでも耐え難いのです。このような、まるで……」
 座敷のすぐ側まで近付き落ち着いて良く聞いてみると、声の主は浩介である事が分かった。しかし普段とは違う、妙な深刻さが滲み出た口調である。声を潜めようとはしているが、言葉の節々がつい強く出てしまっている。かなり感情的になっている様子だ。そして話の内容からしてもう一人、誰かが座敷の中にいる。それを確かめるにはもう少し前に出なければならないが、それでは障子越しに自分の気配が見つかりかねなかった。俺はじっと耳を澄まし、浩介以外の声が聞こえないかと会話を探った。何故ここで隠れ盗み聞きを始めたのか、自分でもよく分からなかった。ただ何となく、本来なら今ここに自分が居てはならない、そんな予感がした。だからこそ聞きたいのかもしれない。
「確かに本土の人です。けれど、いつも優しく自分にすら気を使ってくれる、分け隔ての無い方です。そんな人、自分は他に心当たりありません」
 本土の人? 俺の事だろうか? 俺の事で浩介は動揺している?
 話をしている相手は誰だ? 浩介の畏まった口調からして、祖母だろうか? だが、浩介は普段からあの調子だ。
「もう全部打ち明けて、終わりにしてしまいませんか……? 次は……ご存知のはずです」
 打ち明ける? 俺に? 何を?
 次は? 次とは一体何が起こる?
 一体浩介は、誰と、俺の、何の話をしているのだ?
 幾つもの疑問符が浮かぶものの、一向に核心に迫る単語が出て来ない。
 暗がりに潜んでいるせいだろうか。やがて俺は、俄かに方向感覚を失ったような、不思議な浮遊感を覚えた。しかし気持ちは愉快とは遠くかけ離れ、ただただ言い知れぬ不安に包まれている。