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 いつの間にか俺は息を荒げていた。息遣いを聞かれまいと、口を手で押さえ無理矢理音を静める。しかし、異様に高鳴る心臓の音が頭の中にまで広がり、それを聞き付けられるのではないか不安だった。
 ともかく、俄かには信じられない、受け入れられないような会話だった。正確に内容を把握している訳ではないけれど、言葉の節々だけでも十分、本来なら絶対俺に知られてはならないというニュアンスが含まれている事が分かる。浩介だけではない、少なくとももう一人、俺にずっと何かを隠している者がいる。この事実をどう消化するべきか。俺はしきりに思考を巡らすあまり、瞬きすら忘れていた。
「裕樹様は自室におられます。予習をなさっています。皆さんが言われるよりずっと、最近は勤勉になられたと自分は思います。もう資質は十分なのではないでしょうか? これ以上続けなくとも……」
 こちらの存在をしる由もない浩介は、まるで独り言のように尚も必死の訴えを続ける。
 そんな浩介の今の言葉の一節がふと気になった。何故、俺が目を覚ましていて、尚且つ予習をしている事を知っているのだろうか。部屋の電気が点いているのを見て言っているのだろうか? それにしては口調が断定的である。まるで自分の目で実際に見て確かめたかのような言い方だ。
「水野さんをこのまま……あ、いえ、申し訳ありません」
 新たに別の名前が出た。今度は水野さんである。
 俺の時とはまた違った口調だった。水野さんもこの件に何か関わっているという事なのだろうか? 隠し事ならば、確かに水野さんは絶対に漏らすようなタイプではないのだから打ってつけなのかもしれない。ただ問題は、水野さんは本当に関係しているのか、もしそうならば何が目的なのか、そういう事だ。
 所々でしか話は聞く事が出来ないが、断片的でも推測しながら繋いでいけば、おおよその内容は見えてくるものである。統計と同じ理屈だ。しかし俺はもう、聞きたいとも詳細を推測したいとも思わなかった。浩介や、誰かは知らないが他の関係している者も、俺に隠しているのは理由があってのことだ。それを些細な好奇心で覗いたりするから、こういう苦い気持ちになるのだ。だからこれは聞かなかった事にして、すっかり忘れてしまおう。むしろ悪い夢でいて欲しい。そう結論付けた。
 結論が出るなり、俺は足早に自室へ戻った。もう今夜は予習も何もしたい気分ではなかった。眠れば大概の嫌な気分は忘れてしまうものだ。そういう意味で早く楽になりたかった。ただ心配なのは、果たして今の気分の持ち用で眠れるかどうかだ。
 足音を立てぬように気をつけながらも一気に階段を駆け上がる。この勢いのまま部屋に入り、電気を消して布団に飛び込む。もはやそれしか頭にはなかった。意外に簡単にショックを受ける自分の脆さに驚きはしたものの、その半面早く寝なければ気持ちの平衡が保てない。そんな予感がした。
「うわっ!?」
 自室の前まで来て、俺は驚きの声を上げた。
「夜分、失礼いたします」
 どういう訳か、部屋の前には正座して待つ水野さんの姿があった。こちらを見るなり、普段の淡々とした口調で深々と頭を下げる。元々起伏に乏しい人ではあったが、こんな唐突な行動をしたのはおそらく初めての事だ。
 まずは水野さんの服装に目が行った。水野さんは薄青で無地の浴衣を着ていた。どちらかと言えば寝間着のような服装である。颯爽とスーツを着こなす毅然とした姿しか見た事がなかっただけに、妙に新鮮さというかなまめかしさというか、種々の新しい感情が込み上げて来て、次の言葉を決められず右往左往する。
「あの……どうしたんですか?」
「お時間を頂いてもよろしいでしょうか?」
「あ、ああ、はい。とりあえず、どうぞ」
 言われるがまま水野さんを部屋へと促す。今はとても人と相対したい気分ではなかったが、世話になった恩人をにべもなく帰す事は出来ない。
 水野さんを部屋に入れ、一度廊下を見渡してから閉める。先程の、浩介が俺の行動を断言した妙が気にかかったからだ。どこからか覗かれているかと思ったが、廊下には気配一つ無い。
「このような時間に、予習をされていたようですね」
 その間に水野さんは俺の机を見ていた。机の上には水野さんのテキストや悠里に見繕って貰った参考書等が散乱している。こんな時間に勉強をしている事を知られるのが妙に恥ずかしく思い、俺は慌てて机の方に駆け寄った。
「はは、なんかちょっと目が冴えちゃって。すぐ片付けます」
 散乱する本をかき集めて閉じ、無造作に積み上げてまとめる。ノートもその上へと重ねた。如何にもただスペースを確保しましたと言わんばかりの雑な整理である。
「ところで、蓬莱様を手放してどちらへお出ででしたか?」
 そこに水野さんが問い掛けてくる。振り向くと水野さんは、俺がいつも首から下げている蓬莱様の入った巾着袋を手にしていた。寝る前に、自分で枕元に放り出したままにしていた事を思い出す。
「あ、ちょっとトイレに。つい、ど忘れしてました」
「以後、注意して下さい」
 そう言って水野さんは俺の手を取り、手の中へ大事そうに蓬莱様を握らせる。随分温かい手だった。いや、単に俺の手が冷えているからそう思うだけか。
 水野さんの言い回しは普段と何ら変わりは無かったが、口調は明らかに違っていた。普段のような、突き刺さるように強く戒める雰囲気がほとんど感じられなかった。まるで優しく諭されているように感じる。
 俺は何故かそれを気まずく思い、俄かに浮足立った。これはきっと裏がある。そう邪推しなければ落ち着けなかった。そもそも、こんな時間にいきなり訪ねて来るような用事とは一体何なのだろうか。明日ではいけないのだろうか。そう動揺する気持ちのもう半分では、先程の浩介と何者かとの会話の内容が錯綜していた。あの会話には水野さんの名前も上がっていた。これは何か関係しているのではないか。そう思わずにはいられなかった。
「震えているようですね」
 不意に水野さんの手が俺の腕を伝い、肩へと伸びてくる。水野さんの距離もいつの間にか驚くほど狭まっていた。
「あ、あの……?」
 枯れたような掠れ声で問うと、目の前で水野さんは静かに微笑んだ。これまでもほとんど水野さんの表情らしい表情は見た事が無かった。それは、そんな数少ない表情の中でも、どれにも当て嵌まらない表情だった。俺は頭が真っ白になるほど強く動揺した。静まりかけた心臓が再び高鳴りを始め、手足の先が痛いほど痺れる。
「まさか、からかってたりしないですよね?」
「裕樹様は、年増に興味はありませんでしょうか」
「そこまで言うほど離れてないじゃないですか。それに」
「裕樹様は私が綺麗だと褒めて下さいました」
 そう水野さんは微笑み、両手を俺の肩に乗せしな垂れかかる。距離が一層縮まり、俺の緊張もピークを迎える。心なしか呼吸も抑えるのが苦しくなってきた。
 本気なのだろうか?
 俺は言葉が急に言葉が出なくなった。出なくなったという事は、相手が本気であると認識し確信している事にもなる。しかし、若気の至りの思い込みも否めない。希望的観測に傾倒するのが若さの欠点だと教えてくれたのは、外ならぬ水野さんだ。
 まずはきちんと冷静になって真意を探らなければ。このままなし崩しになってしまう。
 普段は話のペースを掴む事で自分は冷静になれる。だからもっと話さなければいけない。そうする事で何か着地点が見えてくるかもしれない。俺はしきりに閉じようとする喉を何とか押し開いた。
「ご褒美なら、もう貰ったはずですけど。おかげで今夜はみんなと楽しく遊べましたし」
「これは単なる個人的な興味ですから」
「しかしですね」
「私ではお気に召しませんか?」
「そうじゃないですけど」
「咎めますか? 既に意中の方がいらっしゃいます?」
「いや、その、まだ何とも……」
「でしたら気に病む事はありません。翌朝になれば忘れてしまった事にすれば良いのですから」
 ふと、以前に聞いた浩介の言葉を思い出した。俺には緒方家の次期当主という肩書きがあるからモテて当たり前なんだという。ならばこれも、そのために起こった出来事なのだろうか?
 そんな事に思いを巡らせ、一喜一憂し、やがて細かい事はどうでも良くなった。