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 目が覚めたのは、普段起きる時間より少しだけ早かった。携帯を開き、いつものように少しだけ損をした気分になり、アラームを止める。アラームを少しだけ早めるか、しかし切りが悪いのはいまひとつ踏み切れない、そんな小さな葛藤をするのもいつもの事である。
 大きなあくびをし、背筋を伸ばしながら見渡した部屋には、自分以外誰もいない。当然の事なのだけれど、今朝は少し事情が異なる。だから、一人でいる事に少しばかりホッと安堵のため息をついた。
 水野さんは既に戻ったようである。ただ、それがすぐの事なのか夜が明けてからの事かは分からない。何故なら、昨夜は自分が一体いつ眠りに落ちたのか覚えていないからだ。徹夜明けのような気怠さ以外、まるで嘘のように水野さんがいたという痕跡が残っていない。
 どうにも複雑な心境だった。気恥ずかしいのとも違う、また深刻という訳でもない。自分の立ち位置が分からなくてオロオロしている、そんな感覚だ。あまりに唐突な事だったから気持ちが混乱しているのだと思う。捕らわれ過ぎぬよう、深く考え込まない事を意識した方が良いかもしれない。だが実際に、普段通り明るくへらへらとは素直にはいかなかった。
「うわっ!?」
 突然、携帯のアラームが鳴り響いた。アラームは今止めたばかりである。鳴るはずの無いアラームに意表を突かれ、思わず驚きの声を上げてしまった。
 すぐに携帯を開き電源ボタンを強く押し込んで音を止める。すると画面には、続けて妙なメッセージが表示された。
『メールの保存箱を』
 今使っている携帯には、アラームが鳴った際に短いメッセージを続けて表示する機能がある。何のためのアラームなのかを知らせるためという、何とも馬鹿にされたような気分になる機能だ。
 こんなアラームを設定した覚えはない。だがそれが誰かはさておき、すぐさま画面を保存箱へ遷移する。するとそこには下書きメールが一通存在していた。無論、身に覚えの無いメールである。訝しく思いながらも、早速そのメールを開いてみた。
『まず、くれぐれも口に出さぬようにお読み下さい。あなたには、時折思っている事をそのまま口にする癖がございます』
 その出だしから、書いた人物が水野さんである事が分かった。もっとも、この状況で他にこんな事の出来る人間はいないのだけれど。
 どうして冒頭からこんな注意を受けなければならないのだろうか。そんな事を考えつつ、更にメールを読み続ける。
『昨夜の事、これは私的な事とお話いたしましたが、それは事実ではございません。私はさる御方の命にて御伺い致しました。御名前は明かせません。御察し下さい』
 あれはプライベートな事ではなかったのか。それどころか、自発的ですらなかった?
 その意外な内容に、俺は思わず声を出しそうになるのを堪え、歯をぎりぎりと擦りながら首を傾げる。これはどういう事なのか。その結論を出す前に、まず俺はこのメールを削除した。この告白は水野さんの立場を危うくするものにまず違いないからである。水野さんにここまで強要出来る人間なら、報復も容易なはず。それを避けるためには少しでも慎重になった方が良いのだ。
 携帯を閉じ、机の上の昨夜の余ったお茶を飲んだ。まだほんのり温かさが残っているが、渋みもその分強く感じられる。だがその渋みが寝起きでぼやけている頭をより鮮明にさせた。心なしか気分も引き締まったように思う。
 一息ついた所で、再び思考を巡らせる。
 よくよく考えてみれば、水野さんに命令出来る人間など一人しか思い当たらない。そう、祖母である。しかし納得のいく理由が思い当たらなかった。穿った見方をして、年寄りの余計な御節介だったと取れなくも無いが、それなら水野さんがわざわざあのようなメールを残す必要が無い。俺を勘違いさせておいた方が余計な波風は立たないからだ。ならば何か目的があっての命令なのだろうが、他にそれらしい理由が思い付かない。
 見方を変えると、水野さんがわざわざ仄めかした意図も疑問である。仮にこの内容が事実だとするなら、祖母に強要された事に対する報復と解釈出来る。逆に嘘だとしたら、明確に悪意を持った行為としか解釈出来ない。どちらにしても、水野さんは俺と祖母を不仲にさせようと画策した事になる。しかし、そこから続く目的はあるのかどうか、重要なのはそこである。特に悪意を持っている場合のそれは、大概良くないものだ。
 俺は大きな溜息をつき頭を抱えた。自分が物事を推察する能力に乏しい事は日頃水野さんに注意されていたが、今ほどそれが恨めしいと思った事は無い。本当はもっと以前からこういう状況に繋がる要素は散らばっていて、俺はそんな事など気にも留めずだらだらと遊び呆けていたからこうなってしまったのだ。そう自虐的になってはみたものの、やはり建設的ではない思考からは何も生まれず、虚しさに溜息が漏れるばかりだった。
 闇雲に考えた所で真相には辿り着けない。自分のような人種は考えるのも休むのも大差ないと昔から皮肉られている。俺は考え込むのを止め、普段着に着替えると顔を洗いに洗面所へと降りて行った。無論、蓬莱様も忘れずに首に下げる。これを付けてからろくな事が起こっていないように思う。祖母の頼みでなければ、とっくにゴミ箱へ投げ捨てて憂さを晴らしていたに違いない。
 朝食は祖母といつものように和やかに済ませた。祖母は相変わらず食が細く、薬と白湯を飲んで仕事へ出掛けた。俺はお茶を飲み自室へ戻ると、そのまま昼間で仮眠を取った。祖母が働いているのに自分は寝ているのか、という自責もあったが、自らを奮い立たせるほどの活力は湧いてこなかった。
 昼過ぎに何か飲み物を用意して貰うように言うと、部屋に持ってやって来たのは成美だった。成美は昨夜の別れ際とは打って変わって非常ににこやかだった。機嫌も良さそうで、普段よりもずっと表情が目まぐるしく変わっているように見える。あれは一時の錯乱か、もしくは光の加減で見間違ったのか。俺は自分が認識違いしていたように思えてきた。
「あ、成美ちゃん。あのさ」
「はい?」
「明日。大丈夫、だよね?」
「ええ、問題ありません。楽しみにしています」
 淀み無くにこやかに答える成美。表情の動きを寸分たりとも見逃すまいと観察していたが、やはり笑顔以外の何も窺い知る言は出来なかった。口調もはきはきとしていて、普段よりもずっと明るい印象である。
「見上さん、どうかなさいました? どこか具合でも?」
「え? ああ、大した事ないよ」
「具合が悪いのでしたら、日を改めても構いませんけど」
「大丈夫大丈夫。昨日はしゃぎ過ぎた上に、あんまり良く寝られなかっただけだから。今日はのんびり休むから大丈夫。だから膝枕してくれるかな?」
 すると成美は途端に困惑と怒りとが入り混じった表情を浮かべると、大きな溜息を一つ付き無言で一礼し部屋から出て行ってしまった。いつもなら、また変な事を言って怒らせてしまったと苦笑いするところだが、今日に限っては成美が普段通りだったと安堵した。
 夕方になりいつもの授業時間が近くなると、水野さんはきっかり五分前に部屋へやってきた。
「裕樹様、まだ少々早いですが始めても宜しいでしょうか?」
「はい、お願いします」
 普段と同じ受け答えをし授業が始まる。
 水野さんの様子は普段と何ら変わりが無かった。昨夜のしおらしさは全く見当たらず、こちらのミスや落ち度にはいつものように遠慮なく指摘をして来る。授業のペースもこちらがついていけるぎりぎりの速さを維持し、少しの妥協もない厳しい内容である。
 これこそが現実の水野さんであって、あれは自分の見たいかがわしい夢だったのではないか。そうとすら思えてきた。そういういかがわしい視線で水野さんを見たことは無いと言えば嘘になるが、それは少しでも気になる相手には誰彼構わず抱いてしまうものだ。そんな数多の妄想の一つが、たまたま非常にリアルな夢として出てきたのではないか。それを勝手に大事にして慌てているだけではないのか。しかしそれは自分の感覚を疑う単なる逃避で、実際に理性の部分では昨夜の事を、非現実的な現実の出来事と認めてしまっている。
 このふらふらした疑問を払拭するために、何故とか、どうしてとか、認識合わせを求めるような質問をしたかった。けれどそれは出来なかった。昨夜の事が現実かどうかを客観的にもはっきりさせてしまうのが怖かったのだ。はっきりしてしまった時点で、自分の送る日常の歯車が一つずれてしまう、そんな恐怖があった。
 俺は一度自分の日常を無くしてしまっている。だから、今度こそ自分の日常は無くしてしまいたくない、出来るなら少しでも変えたくはないのだ。たとえ誤魔化しでも、自分の世界観が維持出来るならそれでもいい。そう、思うのだ。