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 成美と共に屋敷を出たのは、正午より少し前の時間だった。成美は自分の仕事が空いていたらしく、あっさりと抜け出してこれた。俺が用事があるのだ、と言えば都合などどうとでもなるのだけれど、そういった強権を使わずに済んだのは幸いである。俺は未だに自分に対して遜って来る人間が苦手で仕方ないのだ。
「最初に腹拵えだな。そういえば成美ちゃんは辛いのが駄目なんだよね」
「はい、どうしても刺激に弱くて。生姜くらいなら食べられるんですけど」
「この間ね、変わったカレー屋を見つけたんだ。世界でも指折りに辛い香辛料を使ってるんだって」
「そこで私がオロオロするのを見たいんですか?」
「鋭いねえ。でも惜しい。正解は、どうやって食べるのか観察する、でした」
 俺の冗談とも本気とも取れる口調に、成美は叱るような表情で口をすぼめた。機会があれば本当に試そうとする人だ。きっとそれぐらいには思われているに違いない。
 考えてみれば、成美と二人きりで出掛けるのは久しぶりの事である。白壁島へ来たばかりの頃は何度か町を案内して貰っていたが、外歩きに慣れてきてからは全く無かった。友人達の集団で出掛ける時、成美も一緒についていく方が多いだろう。後は悠里の呼び出しに応じた場合だ。
「そうだ、お勧めの店があるんだ。奢ってあげるからそこ行こう」
「辛いのは駄目ですよ」
「違う違う、ちゃんとしたパン屋だよ。パンはともかく、サラダとスープが豪華でおいしいんだ。エスプレッソも無料で飲めるし」
 しかし、どういう経緯でその店を見つけたのかは口にしなかった。あれは悠里に誘われてデートに行った時に、目当ての店が満席で入れず、ぶらぶら歩いていた折にたまたま見つけたものだ。それを言ったら成美はまず良い顔はしないだろう。成美は悠里に対して立ち位置がいつも微妙なのだ。
 夏休みという事もあり、大通りは人出で賑わっているかと思っていたが、今日はさほどの混雑も無かった。雨が上がったのは昨日、翌々日なら出掛ける人も多いはずなのだが、意外とそういう訳でもないようである。雨上がりの快晴は湿気が一気に飛んで程よい涼しさを味わえるのが俺は好きだ。こういう時に出掛けないのは勿体ない事である。成美との約束とうまく重なってくれて良かった。
 五分ほど歩いて目的の店へ到着する。開いているのか開いていないのか一目では分からない入口も以前と何ら変わりは無かった。
 その店は大通りからは外れた路地の一画にあった。大通りに案内の看板は出しているものの、看板の背が低いため注意していなければ目に入らない。その上店舗の周囲にはバスの車庫が並んでいて、あまり喫茶店らしさの景観が無い殺風景な所だ。そのためか店内には窓が殆ど無く、壁紙や家具などの内装に本業がパン屋とは思えないほど力が込められていた事を覚えている。
 欲しいパンをトングで取ってトレイに並べ、レジで飲み物とサイドメニューを注文、それから脇にある飲食用の区画へ移った。そこは表とは違って同じパン屋とは思えない豪華作りになっている。如何にも芸術的らしい壁紙と調度品は中世のロシアを意識しているのかもと悠里は言っていた。その割にロシアらしいパンは置いていないのだけれど、馴染みの無い文化で際立たせようというのは利にかなっている事でもある。
「私、こんなお店があったなんて知りませんでした」
「場所が場所だからね。普通に考えて、こういう所にパン屋があるって思わないもん。パンの焼く匂いがあるでしょ、あれに気がつくかどうかだな」
「見上さんはすっかりこの島に馴染んだようですね」
「嫌だなあ、何を今更。俺って適応力はあるんだよ?」
 店内には自分達以外にも数名の客がいて、みんな同じように表で買ったパンと飲み物を並べて楽しんでいる。その間にも店には定期的に客が訪れ、パンを幾つか買って帰っているようだった。お世辞にも良いとは言えない立地条件ながら、昼時という事もあって客足はなかなか途絶えなかった。やはり口コミで広まっているのだろう。美味しい店と悪い噂は伝わるのが早いものである。
 食事が終わってから商店街へ買い物へ出掛けた。成美はこれと言って何か欲しいものがあるという訳ではないらしく、服や靴を中心にぶらぶらと見て回った。自分は雑誌を見てこれにしようあれにしようと決めてから買いに行くタイプのため、いまひとつ見るだけという楽しさが良く分からなかった。けれど、成美が楽しめるのであればそれで良いと思った。無論、ただ連れ回すのが目的ではないのは分かっているし、形としては連れ出したのはこちらの方である。
 調度五軒も店を回った頃、喉が渇いた事もあって休憩を取る事にした。近くにあった喫茶店に入り、大口のタンブラーにたっぷり氷の入った冷たいソーダを注文する。久しぶりに炭酸を思い切り飲み、言い知れぬ心地良さを味わった。外は未だ陽射しも強く、夏らしい暑さが続いている。空調の利いた店内は居心地が良かった。そのまま小一時間ばかり話し込みながら時間を潰して涼んだ後、再び外へ繰り出した。その頃になると太陽が少し傾いていたが、暑さはまだまだ衰えてはいなかった。太陽は真上にある時よりも西に傾いた時の方が暑く感じるらしい。日の出からの太陽熱が蓄積されてピークを迎える時間帯だからなのだろうが、夏の日差しは西だろうと東だろうと容赦の無さに差は無いように思う。
「次はどこに行こうか? まあ、外歩きはちょっと暑くてしんどいからね」
「そうですね」
 そう言ったきり成美は口を閉じて考え込み始めた。成美はあまり自分からこうと提案する事も意見を振られて述べる事もしないタイプである。それでも自分なりに何か出そうと考え込んでいるのだろうが、自分としてはそこまで深刻にならなくとも思いつきで適当に並べてくれて良いのだが。根が真面目過ぎるのか、妥協を知らないタイプなのか。おそらく前者が成美、後者は浩介だろう。
 しばらく待って何も出て来なければ自分で決めてしまおう。そんな事を考えながらぶらぶらと歩いていると、不意に成美が足を止めおもむろにこちらの顔を見上げてきた。何か考えが見つかったのかと思ったが、その表情はやけに緊迫した真剣なものだった。
「見上さん、蓬莱様は持っているでしょうか?」
「ん? そりゃもちろん。ちゃんと持ってるけど、どうかした?」
「いえ、何でもありません」
 巾着に入れて首から下げている蓬莱様を成美に見せたが、成美はそれを一瞥しただけだった。俺がちゃんと祖母の言いつけを守っているのかどうかを確認したのかとも思ったが、さほど目視もしない所を見るとあまり問題にしていないようにも取れる。
 急にどうしたのだろうか。そう首を傾げる俺に成美は更に言葉を続けた。
「見上さんは白壁島をどう思っていますか?」
「いいとこじゃないの? 最初は凄い田舎だって思ってたけどさ、暮らしてみると案外不便も無いし。遊べる所が手近にあるから、かえって都合いいかな。思ったよりみんなとも早く打ち解けられたし。ま、いきなり見ず知らずの人に拝まれるのはまだ戸惑うけどね」
「ずっと居たいと思います?」
「そりゃそうだけど……どうしたの? 本当に」
 その時だった。
 俺がそう答えるや否や、突然成美は蓬莱様を掴むと、無理矢理巾着から取り出して道端へ投げ捨ててしまった。古ぼけた木箱の姿をしている蓬莱様は歩道へ落ち、そのまま街路樹の方へと滑るように転がっていく。
「ちょ、何を―――」
 予想もしなかった成美の行動に思わず声を上げる。すかさずそこに、抗議する暇も与えないとばかりに成美が抱き着いてきた。いや、親愛のそれではなく、むしろ蓬莱様を拾いに行かせないよう縋り付いているかのようだ。
「私は欲しがっていたんです。見上さんに言われなくとも」
「欲しがってるって、何の話?」
「私は見上さんの事が好きです。誰にも取られたくないんです。いえ、お願いですから、せめて白壁島からは出て行かないで下さい」
 俺は成美の言っている事を必死で理解しようとするあまり、その場に棒立ちになった。成美の言っている事は、半分は分かるし前から薄々気づいていたけれど結論はずっと先送りにしていた事だ。それを成美の方から切り出して来たのは意外だったが、そこまで驚くほどでもない。問題はもう半分、何故俺にそこまで白壁島から出て行かないようにと懇願するのか、だ。かつて一度たりとも白壁島なんか出て行きたいと口にした事があっただろうか? 少なくとも人前では絶対に無かったはずだ。そして、白壁島へ留まらせようとする事と蓬莱様を投げ捨てる事と何の繋がりがあるのだろうか? 蓬莱様はむしろ白壁島の象徴のようなものではないのだろうか。
「あ、あの……」
 成美をどう扱おうかと困惑していると、一人の老人がおずおずとこちらへ進み出て来た。差し伸べてきた手には成美が投げ捨てた蓬莱様が乗っている。どうやら今の一部始終を見ていた挙句、俺がどこの誰かという事には気づいて恐縮しているようである。
「ん、ありがとう」
 だが俺よりも先に成美は、老人の方を一瞥もせず無造作に蓬莱様をむしり取り、俺が首から提げている巾着の中へ戻した。老人は申し訳無さそうに一礼し、そのまま足早に立ち去っていった。下手に関わらない方が良い場面だと思ったのだろう。自分があの老人の立場なら、わざわざ拾って返すような事すらしなかったと思う。
「成美ちゃん、君は」
「見上さん、あっちに行ってみましょう」
 こちらが問いかける途中で、成美はまた前を振り向き通りの一角を指差した。普段の口調に戻ったと思った。けれど、これ以上何も訊くなと無言の圧力も感じる。触れて欲しくないとか場を改めようとかそういった優しい類ではなく、有無を言わさないとばかりの威圧感があった。
 普段の成美と何かが違う。
 そう比較してしまうほど、成美は明らかに変貌したのだ。