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 その晩は日付が変わっても全く寝付けずにいた。いつもなら起きている事はあっても眠気が出て来るため、どこか区切りの良い所で寝てしまおうと思い始める時間である。だが今夜は眠気そのものを感じなかった。何か少しでも気に病むと、すぐに体に変調を来たすのは自分の弱点である。だから普段は無意識の内にあまり物事を深く詮索しないようにしているのかも知れない。
 電気を消し布団の中に入ってから、既に一時間は経っているだろうか。未だに眠気は訪れる気配が無い。寝返りも何度打ったか分からず、苛立ちから諦めに変わってきていた。
 浩介は一体誰と何の事を話していたのか。
 水野さんにあんな事をさせたのは誰で、その目的は何か。そして水野さんの真意は何か。
 立て続けに起こったこれらの出来事は何か関係があるのではないか。どれもあまりに自分の日常からは掛け離れた事で、いやがおうでもそう安直に思わずにはいられなかった。
 そして何より一番気にかかるのは、他ならぬ成美の事である。成美の言動に幾許かの違和感を感じた事はあった。しかしそれは、本人の資質、純朴さなのだと解釈していたのだが、今日の一件でもはや説明がつかなくなった。
 そもそも成美という人物は、謎だらけとはいかなくとも不可解点が幾つかある。中学のたった一年間だけ本土の学校に通っていた事。水野さんに対する不自然な敵意。時には感情的になってまで生活態度を改めさせようとする事。使用人にしては爪が綺麗過ぎること。疑えば疑うほど、さもない事ですら怪しく思えてしまう。どれも疑わしいと言う程の事でもないのだけれど、ここまで積み重なってしまうと逆に疑わない事が不安になってくる。
 成美は一体何者なのだろうか。それらを集約した疑問がまさにそれだった。普段から当たり前のように自分の日常にいる成美だが、彼女は俺の認識と大きく掛け離れているのではないか。そう思わずにはいられない。
「馬鹿馬鹿しいよな……みんなが俺を陥れようとしているとか、そんな疑ってばっかで」
 暗い天井に向かって一人呟く。
 自分でも分かるほど、俺は疑心暗鬼になっていた。何もかもが信じられず、辛うじてそんな自分を自覚しているから抑えているような状態である。
 そもそも自分のような人間を騙して何の意味があるのか。ここへ来る前ならその一言で解決するような事なのだが、今はそんな簡単な立場ではない。意味が何かしらあるのだ。だからこそ誰彼構わない疑いの輪が一向に収束しないのだろう。
 自分一人で足りない頭を搾っても解決策が見付かるはずもない。やはりここは誰かに相談するべきだろう。そう俺は思った。しかし、相談出来る相手は何人もいない。成美も浩介も水野さんも当事者で、祖母は関わりがあるかもしれないという状況だ。それ以外で、秘密は守りそれなりのアドバイスをくれそうな人物となると、悠里か菊本か森下老人か。だが菊本は基本的に喧嘩腰だから突き放すだろうし、森下老人は馴染みがあまり無いから無難な事を言われるだろう。やはりここは悠里が無難な選択になる。
 携帯を開き時刻を見ると、いつのまにか午前二時に差し掛かろうとしていた。悠里への連絡は明日にした方が良いだろう。俺は携帯を枕元へ放り出し目を閉じた。こうして何も考えずじっとしていればいずれ眠ってしまう。なるべく無心を心掛けながら気持ちを落ち着けた。だが案の定、一向に気持ちが落ち着く事もなければ眠気がやって来る事も無く、また気休めの寝返りを打ちはじめた。きっと何とかなる。その内にそんな言葉を頭の中で繰り返した。ようやく眠りに落ちたのは明け方近くの事だった。
 翌日、朝一で悠里に連絡を入れてみると、昼なら都合がつけられるとのことだった。待ち合わせ場所に悠里はいつものように少しだけ遅れて現れ、せっかく都合をつけてあげたのだからと昼食を要求された。俺は苦笑いしつつも無理を聞いて貰ったのは事実だからと、近くのカフェに悠里を連れて入った。普段通り奔放に振舞う悠里に俺は心底安堵した。自分の認識と実像に差異が無い事ほど安心感を持たせるものはない。
 丁度昼時だったが、客入りはまばらだった。そんな光景は白壁島では割と珍しい事ではない。住人に対して店の数がどう考えても多過ぎるせいである。それでも経営が成り立つのは、やはり白壁島たる所以だろうか。それよりも、単純に客が少ない事はこちらにはありがたい事である。相談事を盗み聞きされ難い事と、腰を据えてじっくり話し込めるからだ。
「裕樹君、なんか眠そうね。どうかした?」
「いえ、昨夜はなんか眠れなくて」
「それでいきなり私を呼び出したということは、まさか私に会いたくて眠れなかったのかしら?」
「いえ、そうじゃないんです……すみません」
 普段ならそんな冗談で話が盛り上がる所だが、こちらの様子に悠里の表情もどことなく悟ったものになった。悠里が勘の悪い人ではなくて助かったと俺は思った。今の自分の状況を事細かに話す事は苦痛なのだ。
「もしかして、成美ちゃんとうまくいってないの?」
「何というか、それも含めてなんです。何から話せばいいのか……」
 相談するために呼び出したは良いものの、肝心の内容がまだまとまってはいなかった。どこから切り出せば分かり易いのか、などという考えが今の今まですっかり抜け落ちていた。相手に物事を伝える方法は水野さんに散々教えられたはずだが、実際にそれを生かせないとは。自分の不甲斐無さを更に悔しく思う。
「よく分からないけど、落ち込んでるみたいね。無理に話さなくてもいいわ。少しずつゆっくりにしましょう。それまでお姉さんが慰めてあげる」
「はい……なんかもう、すみません」
 悠里はこちらの様子を知った上で、あえて明るく振舞って見せた。つくづく悠里は優しい人だと俺は思う。そういう事が自然と出来る人でなければ人望は集まらないだろう。
 悠里なら何でも話せそうな気がする。それこそ、口に出す事もはばかられるような本音も含めて。そう俺は思った。