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 結局カフェでは何も切り出せないままに終わった。しかし、それほど焦りは無かった。悠里はきちんと話は聞くし無理には問い質さないと確約してくれたからである。
 ひとまず重い話は傍らに置き、俺は悠里といつものようにデートする事にした。行き先もまた悠里に一方的に決められ、俺はそれに追従する形になった。白壁島の生活にはとっくに慣れ今更特別案内してもらうような場所は無いのだけれど、悠里に連れられると不思議とマンネリを感じさせず妙に楽しかった印象だけが残る。きっと悠里は人を楽しませる事が上手いのだろう。そんな意図もあって、俺は素直に悠里に連れられて歩いた。
 幾つか店を周った後、落ち着ける場所へ行こうとバスプールから海岸へ向かった。以前行った、森下老人などが釣りをするような穏やかな海とはまた別の場所である。断崖絶壁で風も強く、男女二人きりで訪れるのは心中目的だけとしか思えない場所である。しかし人気が無い分、込み入った話をするのには打って付けとも言える。
 バス停から少し歩くと、そこは既に海岸線で切り立った崖がずっと続いていた。申し訳程度に鉄柵が立てられているが、子供でも少し頑張れば登れる程度の高さしかない。今まで何か重大な事故でも起こっていれば何かしら対策は施されるだろうから、おそらく未だ人が落ちたような事は無いのだろう。
「なんか凄いところ連れて来られちゃった。もしかして悠里さん、俺のこと突き落とすつもりですか?」
「そうね。もっと女癖が悪かったらそうしていたかも。ほら、ここって後ろは雑木林で道路側からも見えないでしょ? 下は潮の流れも速いから死体は絶対に浮かんで来ないし。するには打って付けの場所よね」
 微笑む悠里に俺は苦笑するしかなかった。確かにこの界隈は無人と言って良いほど人気は無く、何が起きても目撃者は絶対に現れないだろう。悠里の言う通り、完全犯罪に打って付けのロケーションでもある。海際の断崖絶壁というのも如何にもそれらしい風景である。
「冗談きついですね。俺、自分で言うのも何だけど誠意は欠かした事ないですよ。女癖って、随分な言われよう」
「知ってるわよ。だから、少し前から裕樹君の事は見直してたの。とても良い人だって」
「本土出身の癖に?」
「今日は本当に自虐的ね」
 悠里に手を引かれ、しばし周囲を散策する。しかし景観は断崖と白波ばかりが続き、さほど変化も無いばかりかあまりに荒々しくデートスポットにするには色気が無さ過ぎた。興ずる戯れるというより、何かに追われている逃避行と言った方が近いかも知れない。もう少し日が落ちて薄暗くなれば雰囲気も変わるのだろうが。
 そのまま歩き続け、断崖の先端に辿り着く。そこには鉄柵の他に危険だから乗り越えるなと警告する看板が立てられていた。けれどよほどの物好き以外で、危険を知らずにこんな所へ来る事はまず有り得ない。酷く暢気な看板だ。そう俺は思った。
「ねえ、裕樹君。この島は好き?」
 おもむろに悠里は立ち止まり、そう問いかけて来た。
「え? どうしたんですか、急に」
 どくん。急に心臓が高鳴り指先が痺れる。それは以前に成美にされたのと同じ質問だからだ。
 平静を装いながら答えようとするものの、語尾が上擦ってしまった。
「ほら、裕樹君って都会にずっと居たじゃない? ここでの生活って物足りないんじゃないかなと思って」
「そんな事無いですよ。欲しい物に困ってる訳でも無いし、食べ物はおいしいし、みんな優しいから」
「ならいいの。私、てっきり裕樹君がホームシックになったんじゃないかと思ったの。裕樹君は多少の事ではめげないから」
 今の変調に気づいたのかどうか、ただ悠里はにっこりと微笑んだ。何だ、俺の早とちりだったか。安堵した俺は同じように微笑み返す。
「ホームシックも何も、俺の家はここですから」
「それ、本気で言ってる?」
「ええ、勿論ですけど。……なんか白々しかったですか?」
「ううん、そうじゃないの。裕樹君が本気でここに居てくれるつもりなのか確認しただけ。そうなら嬉しいわ。裕樹君がいなくなったら寂しいから」
 悠里らしくない、変な事を確認するものだ。俺は小首を傾げた。
 俺の肉親はもはや祖母しかおらず、その祖母はこの島には無くてはならない人物である。孫の自分が同じ所に住むのは当然の事のはず。そして、こういった俺の境遇を今更知らなかったという事もないだろう。悠里は戯れ以外で繰言をしない、一度で物事を把握するタイプだ。珍しい事を訊くものだと不思議に思ったものの、そんな事もあるかとさほど気には留めなかった。
「ねえ、悠里さん。成美ちゃんとは昔から仲良かったんですか?」
「そうよ。小等部に上がる前からもう仲良しだったわ」
 日頃成美は、何か困った事があると必ず悠里に相談している。頼られる悠里は必ず成美を助けようと親身になる。それはまるで姉妹のような仲の良さだ。その関係が今よりもずっと昔からのものならば、悠里は成美の事を誰よりも詳しく知っているはずである。そう、あの時の成美の豹変の理由についてもだ。
「じゃあ、その、思い切って訊ねますけど。成美ちゃんって何者なんですか?」
「どういう意味?」
 悠里は微笑を浮かべて問い返した。明らかに不自然と思った。唐突にこんな質問をされたのなら、普通は怪訝な表情を浮かべるはずである。しかし悠里が浮かべたのは微笑、それも意味深な色の混じるそれである。悠里は何かを知っている。俺はそう確信する。
「気になるんです。それに、成美ちゃんだけじゃない。浩介君も水野さんも、もしかしたら祖母ちゃんも、俺に何か隠している。そんな気がするんです」
 意を決した問い掛け。繋いだ手からこちらの緊張は十分に伝わっているはずである。だが悠里は穏やかな表情で微笑むだけだった。
「変な事を言うのね。そんなことある訳ないじゃない」
 ありきたりで無難な返答、だが表情はまだ意味深さを滲ませたままである。それは口に出した返答とは異なるというサインだと俺は思った。しかし何故、それならそうと本心を口に出さないのか。更に疑問が深まる。
「もしそう感じるとしたら、それはみんな裕樹君に気を使っているだけよ。もしかしたら、正式な次期当主になるのが近いんじゃないかしら?」
「浩介君は堪えられないって泣きそうでしたよ。俺の事を騙すのはもうやりたくないって」
「サプライズパーティーでも計画しているのよ。裕樹君に隠し事しなきゃ、サプライズにならないでしょ?」
 悠里は一体どんなつもりなのだろうか。こちらに核心を突かせようとも、のらりくらりとかわそうともしているように思える。だが、悠里らしからぬあまりに粗雑な嘘だ。これまで一緒に遊んでいて、こんな程度の嘘で騙せるような人間だと頭の良い悠里が見誤るはずがない。なら、何故こうも下手な嘘をつくのか。これではまるで、逆に疑問を抱かせるだけにしかならない。
「分かった、きっと裕樹君は淋しいのね。だからそんな事を言うの」
「はぐらかさないで下さい。俺は真剣に」
 その時だった。
 不意に悠里が繋いでいた手を離すと、そのまま向き直り真っ正面から抱き着いてきた。離れようとするにも、両腕が俺の首の後ろでしっかり繋がって離せそうにない。それ以上に、置かれている状況が良く分からないままでは本気で抵抗する訳にもいかなかった。
「なんですか急に」
「人間はね、こうすると淋しい気持ちが和らぐのよ」
「だから、淋しいとかじゃないんですって」
「いい? 裕樹君は今、ナーバスになっているだけなの。冷静になって思い出して。誰も、裕樹君を、騙してなんかいないわ」
 額と額を合わせながら、悠里はまるで子供に言い聞かせるようになだめてくる。しかしそれで納得がいくはずもなく、すぐに俺は反論をしようとした。すると、それよりも先に悠里が左手だけを離し指をそっと俺の唇に当てた。喋るな、というサインである。
 俺は悠里の視線が異様な光を帯びている事に気が付いた。柔らかな口調とは正反対に、まるで抜き身のような鋭い眼差しで俺を見据えている。心なしか悠里の額が汗ばんでいるようだった。肩も少しずつ震え始めている。そこでようやく俺は、悠里が異常なほど緊張している、若しくは怯えている事を認識した。
「いいから。しばらくこうしてましょ」
 それ以上、俺は何も出来なかった。悠里の明らかに異常な様子に言葉を失い困惑していた。一体何が起こっているのか俺には想像もつかなかった。ただ何となく、今気持ちを和らげる必要があるのは悠里の方だ、そう思い、自然と自分の手を悠里の方と後ろ髪へ添えた。
 やがて悠里の震えが収まり始めると、おもむろに携帯を取り出し、俺の背中越しに何かを打ち始めた。何をしているのか訊ねようと思ったが、先程の凄味すら感じさせた悠里の眼差しを思い出し、ただじっと肩を抱いていた。程無く悠里はゆっくりと打ち終えた携帯の画面を俺に見せてきた。
『出来る限り音を立てずゆっくりと蓬莱様を下に置いて』
 眉をひそめずにはいられない、意味不明な文章だった。しかし悠里の表情は真剣そのもので、とても何かの悪い冗談をしているようには思えない。
 これは、とにかく蓬莱様を体から離せという事だろうか? 音を立てずに?
 意味が良く分からない。そんな意図を込め、首を傾げるジェスチャーで問い返す。すると悠里は更に携帯に文字を打って見せてきた。
『あなたは監視されてる』