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 監視されている。
 俄かにはその言葉を理解出来なかった。理解しても到底受け入れられず、悠里がからかっているとさえ思った。自分には厳重に監視される理由など心当たりが無いだけでなく、そもそも今どこでどう監視されているのかさえも分からないからだ。
 まさか、ずっと誰かに尾行されていて、今も見張られているのだろうか。悠里が声に出さないという事は、それはこちらの話声が聞こえる程近くに潜んでいるのか。しかし、どこをどう見渡した所で自分達以外の人影は全く見当たらない。
 訳も分からず戸惑っていると、悠里が視線で合図を送ってきた。
「駄目よ、裕樹君たら」
 突然甘い声を出す悠里。しかし表情は真剣そのもので、じゃれるような雰囲気は微塵も感じられない。
「もう少しだけ甘えさせて下さいよ」
 とりあえず俺は悠里に話を合わせた。悠里はそれで良いと頷き返し、そっと胸元の蓬莱様を指差す。早く外せ、という意味だろう。
 とにかくここは悠里の言う事に従って、事情を詳しく訊ねるしかない。俺は蓬莱様の入った巾着袋を少しずつゆっくりと首から抜き取り、恐る恐る足元へと置いた。何度か懇願する祖母の顔と痩せ細った指が頭を過ぎったが、流されまいと必死で他所へ追いやった。
「しょうがないわね、もう」
 そう甘たるい声を出しながら、悠里は断崖の先とは逆の方を指差し俺の手を引いて歩き出す。蓬莱様を置き去りにする事にはいささか不安を覚えたものの、悠里に従い素直に連れられた。
「これぐらいなら大丈夫そうね。あまり長くは出来ないけど」
 地面に放置した蓬莱様が辛うじて目視出来るほどの距離を取った所で、悠里はようやく緊張した表情に見合った口調で話し始めた。
「長くって、何がですか?」
「ここは風が強いから、風の音しか聞こえなくなっても不思議じゃないわ。でも、ずっと何の話し声もしなかったらおかしいでしょ? だから手短に」
「言ってる事が良く分からないんですけど……」
 悠里はまるでどこからか何者かに見張られているかのような口ぶりだった。しかも、わざわざ蓬莱様を遠ざけている理由も分からない。まさか蓬莱様があの箱の中に実在していて、それに聞かれたくないという事なのだろうか。俺を監視しているというのは、その蓬莱様だとして。だが、与太話と言うのは下世話だが、蓬莱様というのは一種のオカルトである。そんな事の区別もつかないはずはない。
 そんな心中を察しているかのように、悠里はこちらの目を見据えながら訊ねてきた。
「蓬莱様の中、どうなっているか興味無い?」
「中身ですか?」
 子供の頃、神社で貰ったお守りを口の綻びから中を覗くと、そこには何の面白みもない小さなお札が入っていた事を思い出す。だから蓬莱様も、それに近いものか、もしくは小石か何かの御神体が入っていると俺は想像していた。要は、何が入っているかは信心次第という事である。ありがたる人にとってはこの上無く神聖だが、そうでない人には何も入っていないのと同じなのだ。
「どうなってるって言われても、どうしても見たいってほどじゃないですし。そうそう開ける訳にもいかないでしょう。仮にも神聖なものなんですから」
「でもね、裕樹君の思ってる疑問の半分の答えは、そこにあるわ」
 それは、自分で中を確認するべきだという意味だろうか。俺に開けさせたいのかその真偽はさておき、俺には悠里のその言い方が引っ掛かった。
「どうしてそんな意味深な言い方をするんですか? もしかして、悠里さんは中身が何か知っているんじゃないんですか?」
 すると、悠里は珍しく表情を強張らせ口を閉ざした。どうやら図星と思われるが、それでもはっきりと言えない理由があるらしい。
 こんな状況でも悠里に口を閉ざさせる強い力、それは一体何だろうか。その答えはすぐに脳裏に浮かんだ。直接口に出さない方法でそれを伝えてきた、あの時の水野さんと全く一緒だったからだ。
 緒方家が絡んでいるから言えないのだろうか?
 もし緒方家が黒幕だとするなら、実質祖母が画策したという事になる。今の緒方家は当主代行の祖母が支配しているのと同じだからだ。けれど、祖母が俺に対して謀を企てる理由が無い。そもそも動機が無いのだ。俺はずっと今まで疎遠で、両親の事故死がきっかけで引き取られた孫である。周囲に何を口止めさせるというのだろうか。
「もう半分はどこにあるんですか?」
「知りたい?」
「その口ぶりじゃ悠里さん、知っているんですね」
「でも言えないの。これは私だけの問題ではないから」
「メールでもいいですよ。後でこっそりと」
「駄目。メールは大声で話す事と同じだから」
 一体どんな監視役が居るというのだろうか。ちょっとした会話もメールも監視できるほど有能で、人前には決して姿を表さないという監視役。仮に実在するとして、そんな人材を投入してまで見張っている事とは何だろうか。まさか、それほどまで俺の生活態度に不信感を持っているとでも言うのか。
「一体誰が監視してるんですか?」
「蓬莱様よ」
「あれがですか? 冗談はやめて下さいよ。神様なら何でもお見通しで姿も見えないかもしれないですけど、実在する訳ないじゃないですか」
 しかし、悠里は力無く首を左右に振った。蓬莱様は実在すると言いたいのか、それともそう言わされているのか。少なくとも悠里の本心による言葉ではない、そう俺は思った。
「そろそろ戻りましょう。時間も頃合いだから」
 結局核心には到っていない。むしろ煮え切らないものが残っていて余計に混乱している。けれど、俺は悠里の言う事に素直に従った。これほど悠里の暗い表情を見たのは初めての事で、それに軽いショックを受けていたからだ。
「ねえ裕樹君、最後にもう一度聞かせて。本当にこのまま白壁島に居たい?」
 初めて見た時のような、意味深で薄い笑顔。
 俺は答えられなかった。ただそっと視線を外し目を伏せるしか出来なかった。