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「はぐらかさないで下さい!」
 それは丁度、裏庭付近にある一画の角へ差し掛かった時のことだった。探していた成美の声が突如聞こえて来たのだが、すぐに声をかけるような事はせず、一度形を潜め様子を窺った。以前、一度だけ見せた成美の変貌に雰囲気が似ているような気がする。そう思ったからだ。
 成美は何時に無く声を荒げていた。一応掠れさせるようにして声を潜めているつもりのようだったが、よほど頭に血が昇っているのだろうか声量そのものを抑えきれていない。衆目の中から少しばかり外されて注意をするそれに似ているが、成美の声はもっと感情的で敵意すら感じられた。ここまで成美が激情するのは珍しい事である。むしろ初見かもしれない。今まで何度も口酸っぱく注意はされてきたが、成美自身がこうも露骨な敵意を見せた事は少なくとも俺の記憶には無い。
 そっと盗み見た成美は、携帯で誰かと会話をしていた。成美はその相手に対して怒り心頭の様子だが、俺が把握している限りの成美の人間関係では思い当たる相手はいない。成美は基本的には誰にでも一歩譲り、強く言う事はしない性格なのだ。
「約束が違うじゃないですか! 私には黙ってやらないって言ったのに! はい……予期していなかった? それで仕方なく? そんなの詭弁です! そもそも、どう考えたってこれは不自然じゃありませんか!」
 成美は尚も電話口の相手に語気を強める。両手で握り締めた携帯を今にも握り潰しそうな勢いである。
 会話の内容からすると、どうやら双方の取り決めごとで不履行か何かあったらしい。それを成美が批難しているのに対し、相手は弁解をしているようである。だが、先行きがあまり明るくない。成美はあまり冷静ではなく、相手に対して一方的に非を求めている。よほどの事でも無い限り、こういう場合では相手が折れる事はまず無い。そして折れたら折れたで後の禍根となるのだ。
「私をからかっているんですか? それも、この状況で。こんな事が続いたら幾ら何でも……信じられなくなります」
 成美はひとしきり怒鳴り散らし出し切ったのか、次第に落ち着きを取り戻し始め、声のトーンが普段のものへ変わっていった。
 電話の相手が随分と親しい間柄らしい事が聞き取れる。成美は信頼していたが思うようにならなくて怒ったのだろう。だが、あの成美が怒るなんて、一体何があったのだろうか。電話の相手は一体何をしたのだろうか。二人の会話を盗聴でも出来ればいいのに。そう思った。
 やがて成美が沈黙を始める。会話が途切れてしまったのか、それとも相手が切ってしまったのか。携帯を耳に構えたまま動かない姿は、そのどちらとも取れる。時折頷いているようにも見えるため、おそらく前者なのかもしれない。どちらにせよ、こそこそと窺うやり方では正確な事は分からない。
 これ以上立ち聞きしていても得られるものはない。そろそろ直接出て行って問い詰めた方が良い。そう思っていると、不意に成美が口を開いた。
「お願いですから、正直に答えて下さい。何をしていたんですか、見上さんと」
 その瞬間、自分でも信じられないほど頭の中で色々な思考が駆け巡った。自分の頭はひと時にこれほどの事を考えられるのかと驚きすらあった。成美の放った一言は、それほどの反応を俺に示させた。その質問は、成美の電話の相手だけでなく、俺の推測を確信に変えさせるほどの威力があった。しかも、それらに付随する枝葉のような細かな出来事さえも、瞬時に思い出せる範囲では納得のいく説明がつけられた。
 たったこの一瞬で、自分の世界観が変わりそうなほどのショックを受けた。途方もない自分の推測が真実味を帯びてしまった。自分がした推測にも関わらず、それが俄かには受け入れ難かった。もしこの場にいるのが自分一人であれば、とっくに膝から崩れ落ちていたかもしれない。それほどの衝撃が全身を駆け抜ける。
 だが、半ば茫然自失となりながらも、俺は表面上は平素と変わらぬよう取り繕って前に出た。あまり長くその場に立ち尽くしていると、そのまま逃げ帰ってしまうかもしれない、そんな恐怖心もあった。
「俺がどうかしたの?」
 そう成美に向かって声をかける。
 成美は飛び上がりそうなほどの勢いで驚き、全身を震わせてこちらを素早く振り向く。顔には驚愕の色があまりにも無防備に現れていた。何故ここにいるのか、という意味合いも含んでいるように見えるのは邪推だろうか。ともかく、不意に話し掛けられた驚きだけの表情には思えなかった。
「後でかけ直します」
 だが、意外にも成美はすぐに立ち直ると、そう一言電話に告げて切った。
「見上さん、蓬莱様を肌身離さず持ち歩くのは、そよ様の御命令だったはずです。どうして持っていないのですか?」
「成美ちゃんこそ。どうして持っていないって分かるの?」
 ある程度予想は出来た成美の質問に、俺は首から下げている巾着袋を示して見せる。成美は意表を突かれたと驚く事もなく、ただそっと視線を落とした。それが何とも悲しそうに見えて、思わず気持ちが揺らいでしまいそうになった。
「やっぱり。悠里さんは全部打ち明けてしまったんですね」
「違うよ。あくまで俺の想像。でも、どうやら当たりみたいだね」
「かばっているのですか?」
「悠里さんが何て言ってたとしても関係ないよ。俺が言う事は同じだもの」
 そうですか。成美はぽつりと呟き、うつむいた。
「見上さんは全部分かっていらっしゃるのでしょうか? この島で起きていた事は」
「実は全然だよ。これが猫の鈴みたいものだってくらい。だから何のために付けられたのか、周囲はどう考えているのか、そもそも何が出来る鈴なのかもさっぱり」
「やっぱり、知りたいですよね」
「そうだね。でも、それより気になる事が一つ」
 俺は成美の目の前まで歩み寄ると、うつむいて視線を落としたままの成美の両肩にそれぞれ手を置いた。成美はびくりと一度震えたが、顔を上げる事も無くまたおとなしくなる。
「ねえ、成美ちゃん。君は一体何者なの? 俺に隠してる事、色々あるでしょう」
 その問いに、成美が小さく息を飲んだ事が分かった。あまり訊ねられたくない質問だったのだろう。だから、この状況でもまだ黙り込むかもしれない。
「答え難いんだね。分かった、一方的に答えるのは不公平だから、俺も質問に答えるよ。どんな事を訊かれても」
 しかし、成美は黙ったままだった。それは当然だと思う。少なくともこの島では、俺は隠し事は無いに等しい状態だったのだから、今更訊きたい事などあるはずがないのだ。
 別なアプローチが必要だろうか。そう考え始めて間もなく、おもむろに成美は顔を上げて口を開いた。
「その代わり、私のお願いを一つ聞いて貰えますか?」
「お願い?」
「はい。決して無茶な事は言いません。でも、絶対に守ると約束して欲しいんです。絶対に」
「そう。よし、分かった。条件は飲むよ」
 こんな間近で上目使いに懇願されると俺は弱い。臆面も無く頷いてしまった自分に、内心苦笑いする。だが、引き換えに話は大きく進展する予感がある。ここで起こっている出来事の核心部分に、ようやく触れられそうだ。
「では、今夜私と一緒に来て下さい。そこで全てをお話します」
「一緒にって、どこに行くの?」
 成美は一度口許を強く結んだ。その表情が単なる緊張ではないと咄嗟に俺は思った。緊張でも恐れでもない、もっと決意のようなものが感じられる。そう思った。
「そよ様の元です。そして、他にも深く関係した方々も集めます」
「集めますって、今から? そのみんなって都合付くの?」
「大丈夫です、それは大きな問題ではありませんから」