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 屋敷の中の空気が明らかに変わった。うまく言葉で表現出来ない俺は、この違和感をそう言うしか無かった。使用人達の振る舞いはいたって普段と変わりはない。だが、何か変わっているように思う。俺がした事に対する恐怖なのか、先行きへの不安なのか。とにかく、誰もが口にはしないが複雑なものを抱えているのは確かだと思う。
 自室にてじっと夕食の時間を待った。蓬莱様は元通りに巾着袋の中へ戻している。だが、蓬莱様の前では決して言葉を話す事をしなかった。これを身近にしている限り、気の休まる事は無いだろうと確信している。だから、出来る限り首には提げたくなかった。
 やがて夕食を知らせに来たのは浩介だった。浩介もまた、複雑な心境が表情に色濃く現れていた。
 浩介が何らかの形で関わっていて謀をしていたのはショックだった。けれど、この表情から僅かなりに救われたように思う。浩介は仕方なく関わっていたのだ。だから俺も、責め立てる気は一切無かった。
 今日の夕食は自分一人で祖母はいなかった。珍しい事ではあるが、今まで一度も無かった訳ではない。仕事で不測の事があればそういう事もある、いつもはそう思っていた。だがこのタイミングでは、今日はきっと自分絡みの理由ではないかと想像した。少なくとも、祖母がこの状況を把握していないはずはない。それだけに、具体的にはどんな理由で夕食に来ないのか、それが恐ろしかった。祖母は唯一の肉親である。その肉親に何事か謀られていたなんて、理屈抜きで信じたくはなかった。
 あまり食も進まず、手短に夕食を済ませ自室へ戻る。すると、部屋に置いていた携帯に着信ランプが点っているのを見つけた。誰からだろうか、と手に取って開きかけ、しかしすぐに放り捨てた。手にした一瞬で、色々な顔が脳裏を横切った。けれど、誰からも手放しで喜べるような用件が来ていない、そんな想像をしてしまった。例えようのない、嫌な心境だった。不信感とかそんな生易しいものではなく、自分の人生の巡り合わせそのものに不和が起こっていると、そう悲観的になっている。実際は何が起こっているのかも正確には分かっていないのに、まるで憤っているかのようにただただ強く悲観的だった。
 何もせず何も出来ず、ただまんじりと部屋の真ん中に座り尽くしたまま時間を無為に過ごす。それは、何もしないでただ待つ事が苦手な自分には有り得ない事だった。退屈を感じる思考すら止まっているのかもしれない。しかし、不意に携帯のアラームが鳴り、ふと思い出したように壁の時計を見上げる。携帯のアラームは水野さんの授業の十分前の合図で、あと数分以内に水野さんが来る事を意味している。
 今日は果たして水野さんは来るのだろうか? いつものように授業は行われるのだろうか?
 望みは薄いと思った。この状況に水野さんも無関係ではないからだ。むしろ当事者に近い立場である。それに、周囲がこれからどう動くのかにもかかってくる。少なくとも成美に限って言えば、あまり穏便とは言い難いだろう。自分は成美の本当の顔を知らない。それは先程確認が出来た事実である。だからこの後、成美がどんな動きを見せるのか想像もつかない。
 自分の身に起こっている事、成美やそれ以外の周囲の人間の胸中、そして蓬莱様の正体と意味、これほど不確定なものに囲まれていて、良く自分は取り繕うだけにしても平静さを保っていると思った。やはり腹を決めて蓬莱様を外した事が功を奏しているのだろう。けれど自分は基本的に張り合いを持つ事に向いていない性格である。この落ち着きもそんなに長くは持ちはしないだろう。果たして今後はどんな展開になっていくのだろうか。それを思うだけで気持ちが萎縮してしまうのが分かる。どんな状況になろうと、どんな結末になろうと、とにかく気を強く持って流されるがままになっては決していけない。そう自分へ言い聞かせる。
「失礼します」
 不意に部屋の外からノックと共に聞こえて来た声、それは水野さんだった。俺は掠れ声で返事をし、慌しくそこへ向かう。立っていたのは普段通りシックなスーツに身を包んだ水野さんだった。ただ、今夜はいつも持っているはずのテキストの束が見当たらなかった。やはり授業は無い、何かこれから展開がある、そう俺は直感する。
「恐れ入りますが、下の応接間に御足労願えますでしょうか」
「分かりました」
 それは成美の言った、祖母との対面のためなのだろうか。水野さんは普段から無表情なだけに、その対面が物々しいものになるように想像してしまう。そのせいで伸ばした手足がやたら強張ってうまく動かせなかった。普段なら視線すら落とさない足元のスリッパすらも履く事が出来なかった。
「裕樹様」
 部屋を出ようとする俺を水野さんが一言そう制止すると、そっと部屋の中を指差した。その先にあるのは巾着袋に収められた蓬莱様、こんなものは首に下げたくないと息巻いて置いたものである。
「あ、すみません。うっかりしていました」
 すぐに取りに向かおうと踵を返す。直後、両肩を後ろから抱きかかえられる様に押さえられた。
「恐れないで下さい。私はあなたの味方ですよ」
 困惑する俺の耳元に、水野さんは消え入りそうなほどの小声でそう囁いた。唐突な事に驚き、無防備に水野さんの方を振り向く。水野さんは珍しく柔らかな微笑を浮かべていた。予想外のものを目にし、俺は急に気恥ずかしくなって視線をそらし、改めて蓬莱様を取りに行く。普段眉もひそめないような人が、ここぞとばかりに笑顔を見せるのは反則だ。そう思った。
 水野さんは俺にとって簡単には言い尽せない恩人である。両親の葬儀や様々な手続きだけでなく、今はこんなに素養の乏しい生徒を根気強く教えてくれているのだ。そもそも味方だとかどうとか打算的な理屈を持ち込むべき相手ではないのだ。
 手にした蓬莱様の重みを確認し、一呼吸ついた後、素早く紐を首に通した。目の前の水野さんは既に普段の無表情に戻っていたが、そんな俺に向かって目を伏せ小さく頷いた。俺もまた同じように頷き返し、部屋を出た。
 既に手足は驚くほど軽くなっていた。スリッパもいつも通り意識する事無く自然に足を収める事が出来た。