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 なるほど、そういう事だったのか。
 俺は驚くよりも先に、冷静に状況を理解し納得していた。感情と思考をうまく切り離せたおかげだと思う。いや、そもそも幾許かの予感はあった。成美はただの使用人ではない、別の何者かだと俺は思っていたのだ。ただ、それが今座っている場所だとまでは思わなかっただけで。
 成美は当主に近しい人間だった。それならこれまで成美に抱いていた疑問は大方解決する。何故中途半端な期間だけ本土の学校へ転校していたのかも、時折見せる強情な振る舞いも、想像の範疇だけで無理なく説明は付けられる。しかし、それでも疑問はまだ残る。そしてそれは、蓬莱様とは結局何だったのか、そもそもが全ての問題の発端なのだ。蓬莱様の正体について、悠里も水野さんも明言はしなかった。いや、おそらく出来なかったのだろう。つまり、緒方家から何らかの強い制約がそこにはあるのだ。そして当然の事だが、祖母がそれを知らないはずは無い。
「そろそろ始めっぺしな。みんな足は崩しても構わねぞ」
 そう宣言する祖母だったが、誰一人足の位置を直そうとする者はいなかった。遠慮というよりも、下手な行動は出来るだけ慎みたい。そんな雰囲気である。俺は初めから正座などしてはいなかったものの、この雰囲気に流され、あえて正座に足を組み直した。かえって崩さない方が目立ってしまうと思う。
「まず、皆もう大体の事は分かってすぺ。今日で蓬莱様は終わりだがら、ほっといで良がすぞ。後の事はもう決めでしまったがらな」
 そう語り始める祖母に、周囲は返事も相槌も無く粛々と聞いていた。厳かというよりも、皆が祖母に大して畏敬と緊張を抱いているという様相である。自分でさえも、ある一定の年代以上には神様のように道端でも拝まれる事があるのだから、それが祖母ともなると神格以上に威厳のようなものを若年層も感じるのだろう。
 そんな張り詰めた空気の中だったが、俺は一人取り残されているかのように今の言葉をぼんやりと聞いていた。
 蓬莱様が終わり?
 実に唐突な終了宣言である。それはつまり、今後は蓬莱様を持ち歩かなくても良いという事なのだろうか。しかし、祖母は蓬莱様は俺が当主として相応しいのかどうかを判断するために身に付けるのだと言ったはずだ。それを結果がどうだったのかも話さないばかりか、当人である俺ではなく周囲に宣言するのは何故なのだろう。
 自分は何か聞き逃していたのか、それとも良く分かっていないだけなのか。俺は何の気無しにそれを祖母に問うた。
「あの、祖母ちゃん。じゃあ俺は、これはもう持ち歩かなくて良いって事?」
 良くは分からないが、蓬莱様が終わったのだと言うのならそういう事になる。念のための確認だ。
 しかし、
「うるしゃ! お前は黙ってらい!」
 祖母は急に声を荒げ一喝する。反射的に俺は首をすくめ、余計な事を言いましたと小さく会釈をした。
 これは叱るというよりも、跳ね付けるような口調に俺には思えた。口調の強さがどう考えても必要以上である。自分が今まで祖母に大声を出された事が無いから、驚いてしまったという事もあるだろう。けれどそれ以上に、何故そんな口調でいきなり怒鳴られなければならないのか、そういった理不尽さを覚えた。
 ともかく質問は許されないらしい。では今はどういう状況なのだろうか、そう戸惑っていると、左側の成美がおもむろに口を開いた。
「見上さんは蓬莱様の事を知らないのです。説明して差し上げるべきかと思いますが」
「ふん、今更言っても仕方のねえ事だ。玲子、お前がやらい」
 そう指示された水野さんは一礼し、部屋の隅から祖母の付近まで位置を移動する。
「裕樹様、それではまず蓬莱様をお外し願えますか。巾着の中からも出して下さい」
 言われた通り蓬莱様を首から外して中身を畳の上へ置く。ずっとただのお守りのようなものだと思っていた小さな木箱だが、こうしてまじまじと見てみると胡散臭いことこの上ないように見える。やはり昼間の悠里の言葉が、そう見えるようにフィルタをかけてしまったのだろう。
「それでは蓋を開けて下さい。天蓋を右へ一度回せばロックが外れます」
 いきなり蓬莱様を開けろと言われ俺は戸惑った。
「え、開けるって、中身を出すって事ですか?」
「はい。さほど複雑な構造ではありませんので、どうぞ」
 それは、水野さんは蓬莱様の構造を見た事があるという事なのだろうか。
 とにかく、蓬莱様は絶対に開けてはならないと厳命されて持たされたものである。本当に蓋を開けて良いのかどうか、俺は祖母に確認の視線を向ける。
「何をぼさくさってる。やり方が分がんねのが」
 祖母は冷たく突き放し、俺を一瞥するだけだった。
 駄目と言っていないのだから問題は無いのだろう。俺は言われた通りに蓬莱様を開ける事にした。
 しかし、何故祖母は急に冷たく当ってくるようになったのか。何か虫の居所が悪いようにも見えるが、それだけで俺にだけ八つ当たりするのは不自然に思う。
 先程の件も併せ、祖母の理不尽な態度に不満を覚えつつも、早速蓬莱様を取り上げ蓋に手をかけた。天蓋を掴んで力を込め右へと回す。思ったよりも感触は柔らかく、楽に蓋は一週する。手のひらにかちりと鳴る感触が伝わってきた。
 果たして中には神様が居るのか、それとも別なものなのか。
 恐る恐る外れた蓋を取って畳の上へ置き中を覗き込んだ。
「え……?」
 まず俺は目を細め眉をひそめた。
 蓬莱様の古臭い木箱、その中にはあまりに不似合いなものが納められていたからである。
「どうぞ、指でそのまま取り出して下さって結構です」
 水野さんに言われるのが先か否か、半ば反射的に箱の中へ指を突っ込んでそれを引き摺り出す。灰色と黒が組み合わされた光沢のあるプラスチックの箱。大昔から代々続くような趣など欠片も無く、明らかに極最近に作られたようなものである。手触りは今使っている携帯と非常に良く似ていて、照明にかざすと鈍く光を反射する点も同じだった。お札でも無ければ偶像でも御神体でも無い、極めて現代的なこれが蓬莱様の中身だった。
「何ですか、これは……?」
「あなたを監視するためのものです」
「監視?」
 昼間に悠里から伝えられた言葉が頭を過ぎる。蓬莱様は俺を監視しているのと同時に、悠里も迂闊な言動が取れないように見張られているような素振りだった。だからその時俺は、監視という単語に蓬莱様の言い伝えとはまた別の意味で捉えていた。まさかそれと同じ単語が、この状況で水野さんの口から聞かされるなんて。
「医療用のリチウム電池を主電源、振動による摩擦での静電気を補助にし、常時周囲の音声を収集します。音声は蓄積用のサーバーへ位置情報と共に送信され、各人が専用端末を用いる事でデータの閲覧が行えます」
「え……あ、いや、良く分からないんですけど……」
「裕樹様のあらゆる行動を、我々は常時監視していたのです。白壁島へお越し頂いて以来、ずっと、昼夜も関係無く」
 自分ではない誰かが唾を飲む音が聞こえる。それほど周囲は静まり返っていた。耳鳴りのするような静けさには生理的に受け付けない。だが、この背筋が凍りつくような気分はそれとは別の事だと俺は思った。
「まさか、冗談でしょ?」
「こちらに私の閲覧用端末がございます。宜しければ御確認下さい」
 水野さんが黙って差し出したのは、小型の音楽プレイヤーに良く似たものだった。思わず飛び出してそれを引ったくり覗き込む。小さな液晶の画面には、この屋敷の建つ地名と大広間の文字が表示されている。本体に繋がっているイヤホンを耳に近付けてみたが、そこからは特に何の音も聞こえなかった。しかし、畳の上の蓬莱様をの中身を指で一度小突いてみると、ほぼ同じタイミングでイヤホンからは似たような物音が一度だけ聞こえて来る。次は二度、その次は素早く三度、最後に五拍のリズムで鳴らしてみて、ようやく俺はこの事実を少しずつ受け入れる事が出来て、成す術も無くなりイヤホンを耳から離した。
 自分の行動が全て公になっていたなんて。いや、筒抜けにされていたと呼ぶ方が正確だろうか。とにかく島中の人間は、俺がどういった生活を送っていたのか全て知っていたのだ。
 白壁島での生活が目まぐるしく脳裏を過ぎる。果たして、あの事もこの事もみんなには知られていたのだろうか。皆は俺の前では知っていながらも素知らぬ顔で振る舞っていた。いや、内心では何もしらないで浮かれている俺を嘲笑ったりしていたのかもしれない。煽てて調子に乗らせ影で笑い物にする。まさに裸の王様そのものである。それがこの島での俺の本当の立ち位置だったのか。
「なんでこんな事を……」
 視界が歪むほど酷く頭の中が混乱していたが、なんとか平静を保とうと太腿に爪を立てて自分を落ち着かせる。あまりに非日常的な状況に混乱するのは無理も無い、そんな甘言が耳の奥で囁かれる。けれど、辛うじて状況を正確に把握し建設的に立ち回ろうという理性の方が強かった。ただ、一番装いたかった平素の表情だけはどうにもならず、鏡を見なくとも酷く歪んでいるのが自分で分かった。
「そこから先は私がお話します」
 説明を続けようとした水野さんに割って入る成美。
 成美は相変わらず水野さんへ厳しい視線を向けている。初めはこの意味が分からず、単に仲があまり良くはないからだという程度にしか思っていなかった。しかし蓬莱様がある以上、あの夜の事は成美も知っているのだ。それならば納得がいく。そして、知らなかったとは言っても自分はどれだけ恐ろしい状況に居たのかも今更ながら自覚し奥歯に苦味が走る。
「まず見上さんには私の身の上を打ち明けなければなりません」
「身の上?」
「悠里さんに相談されていた、まさに私の正体の事です」
 昼間に悠里にぶつけた、あの率直な質問の事である。やはり成美はその会話を聞いていて、状況が不自然に思えたから悠里に電話をかけていたのか。
「高木成美というのは偽名です。私の本当の姓は緒方、そして緒方家の次期当主に当ります」