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 水を打ったように周囲の気配が静まり返る。
 成美は無言のまま何も答えなかった。けれど、あんなに堂々としていた視線が少しずつ下へ傾き始めている。それが肯定なのか否定なのか、俺には分からなかった。ただどこかで、軽く否定してくれると、むしろ馬鹿馬鹿しい疑いだと、言ってくれる事を期待していたから、この態度が不安でたまらなくなった。
「もういいだろう、見上。お願いだからやめてくれ。頼むから……!」
 立ち上がった菊本は俺の体を脇から抱え上げ、無理矢理元の席へと引き摺り戻す。激情を押し殺した口調ではあったものの、何故か言葉は普段とは違い自分に対して懇願するかのようだった。普段は演技でこちらが本来の菊本なのだろうか。しかし俺にはどうでも良い事で、口は尚も閉じなかった。
「どうなの? 言ってる意味、分かるよね? 俺さ、何のためにここへ連れられてきたの? 本当に婿にするため? そのために何かしたんじゃないの?」
 と、その時だった。
「違います!」
 うつむいていた成美は突然立ち上がると、これまで出した事も無いような思い切り良い大声でそう叫んだ。いや、喚き立てると言った方が近い金切り声だろうか。自分を見失ったのではないか、そう危惧してしまうほどの声だった。
「あれは! あれは本当に偶然の事故なんです! 本当です!」
「じゃあ、何でああも都合良く水野さんが来たの? 何で白壁島から事故の事を知れたの? 普通、あんなに早くは分からないよね?」
「それは……」
「それは? 何? 答えてよ」
 自分でも嫌になるほどのなぶるような責め口調。しかしそれは自分でも止める事が出来なかった。成美に当たっていると幾分か気分が楽になった。それを自覚していながらも止められない自分が嫌だった。
「私は白壁島に戻った後、見上さんの事をいつも教えて貰っていたんです。見上さんの同級生や近しい人へ心付けと引き換えに、内々に」
「俺のことを監視させてた? 金で雇って? 何でそこまで」
「私は……本当はもっと見上さんと居たかったんです。でも、白壁島には一年で戻らなくちゃいけない。そして、決められていた婿を迎えなきゃいけない。そうしなければ当主にはなれない。だから、他に何も思いつかなかったんです」
「……婿って?」
「そちらの菊本さんです」
 意外な名前が出て、俺を押さえつけている当人を向き、思わず視線が合う。菊本は何故か申し訳無さそうな表情で小さく頷いた。仕方ない。今にもそんな事を言い出しそうな表情である。何となく、それは無理やり決められた事なのだろうと俺は思った。そしてそれを決めたのは祖母だろう。
「私はもっと見上さんを見ていたかったんです。もちろん、見上さんに関する事は全て調べ上げました。住所も分かります。手紙だって書こうと思いました。メールだって送ろうとした事は数え切れません。でも、出来ませんでした。きっと見上さんは、見知らぬ人から突然そんなものを送られてきたら気味悪がるでしょうから」
 自虐的な笑みを浮かべる成美。俺はそれを否定をしようとし、しかし出来なかった。事実、俺は成美の事などずっと忘れ去っていたからだ。成美に本気でそう思われても、反論出来る立場ではない。
「気侭を語って許すのは一度だげだって約束だぞ」
 不意に祖母が会話に割って入り、そう釘を刺すように言う。
 成美を見るそれは、俺の時よりも遥かに鋭い気迫に満ちていた。けれど、成美は全く退かなかった。むしろ先程よりも力強くそれに立ち向かっている。露骨な対決の構図に、何となく俺は不穏な空気を感じた。
「そうです。私はそう約束しました。でも無理です。私はもう一度我侭を通すつもりです」
「おだづな、このほでなしが! お前はおれの言う事さ聞いてればいいんだ! そうすりゃ白壁島はうまぐいぐんだがら!」
「そうやって、それを理由にしていつまでみんなを苦しめれば気が済むんですか!」
 また、成美が声を張り上げた。しかし今度はヒステリックなものではなく、相手を一喝するような、そんな威厳に満ちた声だった。
 俺は驚き呆気に取られた。目の前の成美が、一回りも二回りもまるで別人のように大きく見える。今まで見てきた姿とは違う堂々とした立ち居振る舞いは、まさに当主らしい姿だと思った。猿真似でやっていた自分とは違う、緒方家に生まれついた本物の当主である。持っている素養、大まかに言えば人間としての器が違う、そう感じざるを得なかった。
「いいが、この役に立たねえ悪たれは、すぐにこの島から叩き出す。お前は菊本んとこの孫ど結納だ。そんでこじゃんとした跡取りをこさえればいいのっさ」
「見上さんを追い出す理由はありません。菊本さんと結納を交わす理由もありません。そもそもお互いが承諾していませんから、絶対に、やりません」
「好きだの好かねだの、そんたな気侭いつまで語ってるつもりだ。白壁島のためにする事だ、自分のためじゃね。緒方家が潰れてしまってもいいのが? 白壁島がおしまいになってしまうぞ」
「みんなを不幸にしないと立ち行かないのなら、どの道この島はおしまいです。御婆様は分かっていないだけです。どうして毎年この島を出て行く人が増えているのか、本当に考えた事が無いのですか?」
「何を小馬鹿臭いこと語ってるか!」
 突然、祖母が手を振り上げると、勢い良く成美の頬を張った。手を打ったような音が部屋中に響き渡る。悠里が首を窄め、菊本が腕を一度震わせたのが分かった。声には出さなくとも、部屋中の誰もに怯えと驚きが込み上げてきている事が伝わってくる。ただ、唯一祖母の傍に控えている水野さんだけは微動だにしなかった。
「おれがどうやって今まで白壁島を守ってきたのか、お前には分がんねえのか!? 自分がやりたい事だけして気侭言ってたら、あっという間にみんな飯食えなくなるんだぞ!」
 頬を打った音を掻き消すほどの声で祖母が怒鳴る。しかし、成美はすぐ向き直りまた祖母の顔を真っ向から見据えた。頬を打たれても全く怯む様子は無かった。僅かに髪が乱れ頬に赤みが差したように見えるだけで、全く気持ちは動揺していない。成美は本気で対抗するつもりなのか。今更のように俺は成美の覚悟に気づいた。
「なあ、そよちゃん。それぐらいにしておきなよ。ね?」
 空気が張り詰め息をするのも慎重にならなければいけないような、そんな中。ふと、あまりに場違いなほどの柔らかで能天気な口調がこの場に差し込んできた。驚き振り向くと、いつの間にか聴衆の真ん中に一人の見慣れた顔が立っている。彼の行動に、周囲はまるでとばっちりを恐れるかのように慌てて距離を離した。しかし彼は何も慌てる事なく、にこにこと笑みを浮かべるばかりである。
「……あんださ呼んでねぞ」
「僕は成美ちゃんに呼ばれたんだよ」
 そう森下老人はとぼけたように答え、また笑みを浮かべて見せた。