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「はいはい、ちょっとごめんなさいね」
 森下老人は前方を右手で拝むように構えながら、普段通りのやけに軽い調子で前方へ進み出る。本人の陽気さはいつもの事だが、状況が状況だけに俺にはとても奇異に映って見えた。空気を読んでいないにしても相当な度胸である。しかし、どこか憎めないのは本人の人徳なのだろうか。
 そんな調子で森下老人は俺達の脇も抜け、大胆にも祖母のまん前に腰を下ろした。さすがに異様な状況になったと周囲がざわめき始める。悠里も菊本も何が何だか分からないとばかりに、困惑した顔できょろきょろと辺りを見回している。当事者以外で平然と構えているのは、やはり成美と水野さんだけだった。
「何しさ来た。これは緒方家の問題だ、早く帰れ」
「まあ、冷たい事は言いっこ無しだよ。僕はあくまで島民の一人として意見を述べに来ただけなんだから。聞いて貰ったらすぐ帰るよ」
 眼光鋭く睨み付ける祖母に対し、森下老人はあっけらかんとした緩い口調でにこにこしながら答える。実に対照的な二人だと俺は思った。しかし今は、そんな悠長な事を考えている時ではない。
 少なからず、誰もが森下老人の真意を計りかねていた。町から離れたキャンプ場に隠棲し、たまに買い出しと釣りにだけ出て来る人物が、一体何が目的で此処へやってきたのか。言葉通りの用件だけでわざわざ出向いたとはとても思えない。下手に掻き回して二人の対立を泥沼化にするくらいなら、余計な事を言う前に帰って貰いたい。そう考えている人も少なくは無いだろう。
「成美ちゃんはね、自分の結婚する相手は自分で決めたいって言っているんだよ。それを我侭だって言い捨てるのはちょっと酷いんじゃないかな」
「我侭は我侭だ。成美の婿は菊本んとこだっておれが決めたんだ。今から変える必要はねえ」
「でも、成美ちゃんも一哉君も納得してないよ? それじゃあ幸せにはなれないよね」
「そんたなことは関係ね。緒方の人間は、白壁島が栄えるようにしなくちゃなんねんだ。自分の幸せなんか後回しだ」
「不幸な人が他の人を幸せに出来るとは思えないなあ」
「もうええ! これ以上語る事なんか無いがら、さっさと帰れ! おれさおぼこみたいな事さ語りに来たのが!?」
 目と鼻の先ほどの距離で怒鳴られる森下老人。けれど、息を飲むどころか微動だにしなかった。ただ一つ、小さく悲しげに溜息をついただけだった。
「そよちゃん。僕はね、君がずっと白壁島のために働いてきた事は良く知ってる。自分の事なんか顧みないで、働き詰めだったものね。確かにそれは立派だと思うし、誰にでも出来るような事じゃないよ。けどね、同じようにって人に強要するのは駄目だよ。人には人の生き方があるんだから」
「そのせいで白壁島がどうなってもいがんすか?」
「当主一人でどうにかなるような島じゃないと思うよ? そよちゃんは勘違いしているんだ。白壁島はね、そよちゃん一人で成り立ってるんじゃない。ここに住むみんなで成り立っているんだ。だから、一人でも蔑ろにしてはいけないんだよ」
 語気を強める祖母に対しては、自分がそれ以上に語気を強めるか、強固な態度に出なければいけない。そう俺は思っていた。しかし、森下老人の口調は激昂とはまるで無縁の穏やかでのんびりとしたものにも関わらず一歩も退けを取っていなかった。いや、むしろ祖母の方が森下老人のペースに少しずつ乗せられているようにも見える。森下老人の口調には不思議と聴き入ってしまう魅力があった。そのせいか祖母の口調が少しずつ穏やかになっていくのが良く分かった。
「なあ……」
 やがて、平素よりも更に声のトーンをが落ちた祖母が、ぽつりと森下老人に向かって呼び掛けた。
「なんだい?」
「おれが本当に成美を不幸にさせんべってしてると思ってすか?」
「思ってないよ、これっぽっちも」
 そうが、と祖母は目を細め頷く。
「成美はな、たった一人の孫なのっしゃ。だけんとも、おれが遺してやれんのは金しかね。だからせめて、ちゃんとした婿をつけてやらねばいけねすぺ。仕事が出来て、真面目で道楽もしねえような男。ちょっとばかし固くても根が真面目だったら、成美のことさ不幸にはしねべ。そう思わねえが?」
「そうだね、僕もそう思うよ。確かに裕樹君は、僕らの世代からして見たらちょっとばかり浮ついているよね。遊び相手ならともかく、成美ちゃんの旦那さんにはどうかって悩むのは普通だよ。どう考えても、ちゃんと成美ちゃんを補佐できるくらい頭も良くて真面目な人がいいに決まってる。けれど、それだけでいいの?」
「何がさ」
「それで、そよちゃんは幸せだった?」
 森下老人の言葉に、祖母は唐突に口を閉ざし視線を俯けた。何かを言いかけたようにも見えたが、それを口にするのは憚られるのだろうか。
 何か決定的なものが打ち込まれた。そんな様子だった。あんなにずけずけと思ったことをそのまま口にしていた祖母が、森下老人の前では驚くほど素直になっている。以前、森下老人は祖母とは幼馴染みだったと語っていた。だから祖母は、森下老人の言葉だけは素直に聞くのだろうか。
 そんな静寂がしばらく続いた、その時だった。
「あ、あの! 一つ宜しいですか!」
 突然、緊張で裏返りそうになった声で誰かが立ち上がった。ざわめきながら一同がその方を振り向く。そこに立っていたのは、相当緊張しているのか顔色が真っ青になって震えている浩介だった。殺到する視線に一瞬怯むものの、振り払う勢いよく一礼する。
「自分は裕樹様の身の回りをお世話させて戴きました。自分にとって裕樹様は本当に主人になるのかもしれない方ですから、裕樹様の私生活も覗かせて貰って、わざと御迷惑を何度かおかけしました。しかし裕樹様は、横暴に振舞う事は一度も無く、謝ればそれだけで必ずお許し戴けました。それにみんなで行動している時も、いつも周りに気遣っていて、ケンカがあっても両方の顔を立てて。その、何と言いますか、自分は成美様が選んだのであれば、裕樹様で良いのではと思います」
 意外な発言に周囲がどよめく。だが、浩介は今度こそ怯まなかった。
「裕樹様で何が問題でしょうか!? 自分は、友人と言いますか後輩としてと言いますか、とにかく裕樹様が好きです。一緒に居てとても楽しいんです。この方なら信用出来ます。間違いありません! 成美様が婿とするなら、自分は大賛成です!」
 一息でまくし立てるように叫び、浩介は勢い良く一礼し着席した。周囲のどよめきは更に広がり、ざわざわと話し声にまでなり始める。
 きっと浩介は、自分でも何を言うのかあまりまとまってはいなかったのだろう。けれど俺はただ純粋に嬉しかった。浩介は確かに妙な失敗をする事が多かったが、それは今となっては蓬莱様絡みの試験だったのだと分かっている。結局浩介も俺を品定めしているだけだと思っていた。それが、この状況でああも必死に演説してくれるなんて。人からここまで熱烈に褒められた事が無いだけに、自分でもどうしていいのか分からなくなるほどの感激である。