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 この子供は何を考えているのか。島の将来を左右する事だと分かって言っているのだろうか。
 聴衆の大半は大人で、その過半数は老人である。おおよそ人生経験は豊富に積んだであろう彼らは、浩介の行動を若さ故の過ちと捉えている。そう、俺は思っていた。しかし事態は、思わぬ方向へ進んでいく。
「すみません、私もよろしいでしょうか?」
 ざわめきの広がる中、おもむろに手を挙げ立ち上がったのは、一人の中年男性だった。その顔に俺は見覚えがあった。たまに立ち寄る喫茶店のオーナーである。時折注文を取り違えるそそっかしい人だった。しかしそれも、本当は俺の事を試すために故意にした事なのだろう。
「喫茶マーチを商っています。裕樹君は良くうちの店に来てくれていました。うちの息子と娘は中等部に通っていて、裕樹君の人と形はある程度聞いていましたが、やはり自分の目で確かめなければ気が済みませんから、何度か仕掛けさせていただきました。確かに子供達の言う通り、お喋りでいい加減な印象はありますが、狭量な人柄ではないと私は思います。水をこぼしてもお湯よりマシだと笑い、ケンカが始まりそうになればつまらない冗談で腰を折ってしまったり、そうやって周囲を和ませようとするのです。それくらいは人としては普通かもしれません。ですが、この歳で当たり前にそんな事が出来る人はどれだけいるでしょうか? 彼が打算でやっている訳ではないのは、ここにいる方々ならみんなご存知のはずです。我々は、彼の言動をずっと見てきたのですから」
 普段と同じで店の雰囲気に似つかわしい落ち着いた口調で淡々と述べ上げ、最後に彼は一礼し静かに座った。
 先程の浩介は、多少贔屓目があるかとも思った。しかし、今度はあまり深い接点は無い人物からの意見である。その内容には浩介の時以上に驚かされた。俺の普段の振る舞いが、大人の中の一人にはそのように見えるのである。
 そして、これだけではなかった。
「あの、手芸店の赤松です。裕樹君には、島へ来たばかりの時にうちへ来て頂きました。蓬莱様を首に下げる革紐、あれはうちの品で、最初は試してみるべと無料で差し上げたんです。ですが、後からこっそりと代金が浩介君から届けられました。無料で貰う言われはないからと言われたようで、私は大変たまげました。こんな若いのにしっかりしてるなんて。私は成美様と添い遂げるんであれば反対はしません。むしろ良いんではないがと思います」
 今度は中年の女性だった。顔は覚えてはいなかったものの、話の中に出て来た手芸店でいつの事かはすぐ目星がついた。あれは白壁島でしか起こり得ない、本当に奇妙な体験だった。
「それに、みんなもさ分かってるように、裕樹君は驚くほど表裏が無え。一人でも言ってる事が一緒なんだから、悪い人な訳はないべ」
「菊本のとこの坊主にしてもそうだ。あんないっつもかもられてても、いざって時はちゃんと平等にやろうとしてたな」
 やがて一同が次々と意見を交わし始める。そのどれもが俺の人柄や生活態度についてというのは、何とも不思議な心境だった。思い返せば、自分自身をここまで事細かに分析された事は初めての事である。これまでは、せいぜい評価表に落ち着きが無いと書かれるぐらいだった。それが今、大の大人が何人も意見を交し合っているのである。自分にはそこまで突き詰める価値などあるのか、そう不安にさえ思った。
 しばらくして、唐突に部屋の中が静まり返り一同がじっと口を閉ざした。それは、声を出す前の一瞬の沈黙に似ているような気がした。大声を出すための溜め、みんなの意思疎通の確認、口に出す事の覚悟、そんなものが複雑に絡み合っている。そう俺には思えた。
「そよ様、どうか裕樹君を認めてやって下さい。この通り、お願いします」
 代表して口上を述べたのは、学校の校長先生だった。校長は祖母の前で額を畳みに擦り付けて懇願する。一同もまたそれに続き、同じように頭を深く深く下げた。周囲の人間が全員土下座をしている、それはなんとも奇妙な光景で、俺は一人だけ唖然としていた。座ったままの姿勢でいるのは、自分以外では祖母と成美だけだった。驚く事に水野さんまでもが皆に倣って頭を下げていた。水野さんは祖母の味方をするかと思っていたのだが、まさか皆に追随するとは思いもよらない出来事である。
 緒方家は白壁島の実質的に支配する一族である。蓬莱様は出任せでもそれは変わらない。そんな祖母に対して、島民が異を唱えたのだ。しかも、よりによって俺のためにである。
 祖母に同意する者はこれでいなくなった。果たして、これで祖母は折れるのだろうか。
 成美もじっと祖母へ視線を注いでいる。俺も同じように口元を結び祖母を見た。
 長い沈黙の後、祖母はゆっくりと俯けていた顔を上げ一同を見る。そこにあったのは、皺だらけの顔に更に深く皺を刻んだ怒りの顔だった。
「おだった事ぬかすな!」
 一喝。それだけで、一同が一斉に萎縮するのが分かった。
「そこの童が良い奴だっつっても、それは良い婿という事じゃね。緒方が欲しいのは良い婿だげだ。人も裁けねえうだうだって奴の何処が良い婿か? 女も自分で選べねで何が男だ? そんたなのは緒方には要らねえんだ!」
 息を切らせながら鬼のような形相で叫ぶ祖母の姿に、皆は息を飲んで硬直する。反論の暇も挟ませない鬼気迫った独演、まさに独裁者のそれだと俺は思った。
 成美も悔しそうに唇を噛み、目にはうっすら涙も浮かべている。だがそれでも口を開く事をしなかった。緒方家として必要かどうかを突き詰められると、次期当主としての責任感で反論が出来なくなるのだろう。
 何故、たった一人の老人に誰も逆らえないのか。大勢の意見がこうも一方的に覆されてしまうのか。俺がそう疑問に思うのは、俺がやはり白壁島とは縁もゆかりもない所から来た、外部の人間だからなのだろう。
 その疎外感が、ふと俺に何かを思い立たせた。一人だけ価値観を共有しない人間がいるなら、そういう人間にしか出来ない事をすれば良いのではないか。
 ならば、俺に何が出来る? ここで捨て鉢になってでも、皆の意見を祖母に押し通させるのか? それは俺の欺瞞ではないのか? 今ここで起こっているのは、白壁島では当たり前に起こって来た事。この決断がどう転ぼうとも、それは自然淘汰の流れの一部でしかない。それを俺がどうにかしようなど、あまりに大それている。いや、そもそも俺が祖母を折れさせるのは無理がある話だ。ならば、どうしても折れないのであれば−−−。
 そんな黒い気持ちが脳裏を掠めたその時だった。
「うっ……」
 祖母が小さく声を漏らし、突然激しく咳込み始めた。あまりに激しい咳に、祖母の背中は丸まったまま何度も痙攣を繰り返した。自分の咳が強すぎて自分の体が耐えられない。そんな風に俺の目には映った。
「そよ様、大丈夫でしょうか」
 水野さんはすぐに祖母の元へ寄り背中をさすりながら加減を窺う。だが、祖母はそれがさも煩わしいとばかりに、離れていろと水野さんを押し退けようとする。それでも水野さんは、祖母の腕より先から後ろへは下がろうとしなかった。
「御祖母様、お加減が優れないのでしたら、今夜はお休みになられては如何がですか? 続きはまた後日といたしましょう」
 成美がしれっとした口調でそう言う。恐ろしいほど冷え切った声だった。まるで祖母を気遣うような意図が感じられない口調である。
「なにも……続きなんて、ねえ。これで……終わり」
 咳のせいで息も絶え絶えになりながら、そう何とか強気に吐き捨てる。しかし、異変はそこからだった。
「あっ!」
 一番最初に叫んだのは誰だっただろうか。
 突如、祖母は胸を押さえてぶるっと震えたかと思うと、小さな呻き声を一つ上げてそのまま前のめりに倒れ込んだ。