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「そよちゃん!」
 突然のこの状況に、真っ先に飛び出したのは森下老人だった。傍まで駆け寄り体を抱き上げ仰向けにすると、祖母は口をぱくぱくと小さく開閉しながらぶるぶると震えていた。目は完全に白目を向いていて視点が定まっておらず、痛みがあるのか両手は胸を強く押さえていた。
「どうしたんですか、一体!」
「多分発作だよ。そよちゃん、心臓が弱かったんだ」
 祖母がいつも飲んでいた薬を思い出す。祖母は高齢に加えて幾つか病気を抱えているから長くは生きられないと言っていた。あれは俺を発奮させるための嘘ではなく、本当に体を病んでいたのか。
「とにかく、救急車を早く呼ばないと!」
「いや、それよりも車で運んだ方が早いよ。僕の車に乗せよう。成美ちゃん、ニトロは持ってないの?」
 そう訊ねられた成美は、真っ青な顔で座ったまま凍り付いていた。もう一度名前を呼ばれてはっと気が付くものの、ただ一心に首を横に振るだけだった。
「それなら私が」
 進み出たのは水野さんだった。手には大きめのピルケースが携えられている。祖母用の薬を一式常に持ち歩いているのだろう。蓋を開けてすぐにそれらしい錠剤を取り出す。だが、
「ちょっと待って下さい」
 不意に水野さんの前に割って入ったのは校長だった。
「何か」
 訊ねる水野さんに、校長は無言のまま直立する。そんな事を相手にしている時間は無いと、水野さんはその横をすり抜けて祖母の元へ向かおうとする。だが、またしてもその前を校長が遮った。
「どういったおつもりでしょうか?」
「このままにして頂きたい」
「このまま?」
 そう訝しげに問い返す水野さんに、校長はこくりと頷く。
 それを合図にしたかのように、また一人また一人と祖母の元へ皆が集まってきてそれを取り囲んだ。容態を心配していると最初は思った。しかし、彼らの視線はあまりに冷たく、憎々しげに祖母を見下ろしていた。これは様子を見に来た訳ではない。包囲に来たのだ。そう俺は直感する。
「手遅れになってしまいます。お下がり下さい」
「いいえ、手遅れなんですよ、これはもう。そういう事にして頂きたい」
 はっきりと断言した校長の言葉に息を飲んだ。一体何を言い出すのか、俄かには信じ難いセリフである。だが更に驚いたのは、誰もその言葉を咎めようとしなかった事だ。まるで暗黙の了解かのように皆は沈黙で同意する。
「ちょっと待った! 校長先生、今、このまま見殺しにしろって言った?」
「違います、間に合わなかっただけです。最善は尽くしたけれど手遅れだった、そういう事です」
 普段こういう非常識を目の当たりにすると、思考が停止して身動きが取れなくなるものである。しかし、今は嫌になるほど頭が早く回り意味を理解してしまった。同時に怒りよりも嫌悪感が背筋を駆け上る。
「あんた、それでも教育者かよ!」
 思わず真っ向から大声を出して怒鳴りつけてしまった。しかし、
「本土のお前に何が分かる!」
 それよりも大きな声で怒鳴り返された。
「島のためだと言い、何度も意にそぐわぬ命令に従わされてきました。君の件にしてもそう。我々が本当に喜んで盗み聞きをしていたと思いますか? そうしなければこの島では生活出来なくなるから、仕方なくやっていたに決まってるじゃないですか。これまでも何度も掟の名目で従わされてきました。それでも人並の生活が出来るのだからと諦めていた。成美様も、お可愛そうとは思います。緒方家に生まれたばかりに、島を発展させるための道具扱いだ。そんな無法、許して良いはずはありません。誰だってそう思っています。ですが、従うしかないのです。緒方家に逆らう事は出来ません。そんな事をすれば、たちまち仕事も生活も失ってしまう。だから、これはチャンスなんです。そよ様にはこのまま御退場頂ければ、どこにも角が立たない。みんなが助かるのです。二度と横暴な振る舞いはされません。これこそが、本当に白壁島のためになる事だと、そうは思いませんか? そのために、ほんの少し目を閉じていれば良いんですから」
 掟により、この島の人間は祖母に絶対服従している。それは事実ではあったが、その内心ではこういう機会を日頃から耽々と窺っていたのだろう。そして、今が正にその好機とばかりに隠していた牙を剥き出しにした。そんな祖母を取り囲む顔触れには若者の姿は無かった。おそらく下の世代はあまり影響を受けなかったからなのだろう。けれど、誰一人目の前の出来事を止めようとはしない。それほど皆の結束が固いのか。皆の連帯感が不気味でならなかった。
 視線をそっと成美の方へと向ける。成美は未だ座ったままの姿勢でぶるぶると小刻みに震えていた。状況を良く飲み込めず混乱しているのかと思った。けれど、みんなが言う事と倫理観とが衝突しているようにも見える。行動を決められないほど悩んでいるのだ。そう、悩むという事は、気持ちが二つの考えの間で揺れているという事だ。その二つの考えとは何か、今更確認するまでもない。
「このままじゃ、何のために生きているのか分からなくなる。だから、ここは見なかった事にして欲しいって事か」
「その通りです。君だって、本当は腹が立って仕方が無いはずではありませんか? こんな辱めを受けて、野良犬のように追い立てられようとしていたんですから」
 気持ちが揺れる。それは自分自身へ失望する以上に恥ずかしい事だと思った。理屈ではない感情論なら、確かに死ねばすっきりするだろう。自分をこれ以上無いほど辱めた相手を見殺しにする上に何のリスクも背負わないのだから、これ以上お誂えの状況は無い。けれど、やはり承服はしかねた。仮に復讐をするにしても、俺は何の気兼ねも無い形でやりたいのだ。
 黒い誘惑を断ち切るべく、俺は声をより強めて言い放った。
「さっき森下さんが言ってたはずです。誰かを犠牲にして裕福になるなら、それは今までと同じだ」
「いや、違う! 我々は」
「同じです」
 俺の強い断言の口調に校長が僅かに怯んだ。しかし、校長は俺とは違い多数の支持者がいる。一旦怯んだとしても、またすぐに持ち直し主張を繰り返した。
「まだ耐えろと言うのですか?」
「それとこれは別の問題です。犠牲にして良いような人間なんか、元々一人もいない」
 視線を祖母の方へと向ける。祖母は胸を押さえたままの姿で森下老人に抱きかかえられている。森下老人は耳元に口を寄せてしきりに何かを語りかけている。良い状況ではない。焦りのあまり、俺も同じように自分の胸を押さえた。
「あの人は利益でしか動かない人だ。ここで媚を売った所で、君には何もしてはくれないよ。こんな無意味な事はやめるべきだ」
「無意味じゃ無い。お互いに確執があるなら、きちんと決着はつけるべきだ。こんな決着は駄目だ。だから、早く病院に連れて行かないと。道を開けて下さい」
「だが、私は……」
「早く!」