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 多分、足元が物理的に抜けると、こういう不安感を真っ先に覚えるんだと思う。実際、その直後はうまく歩けなくなっていた。これほど自分がショックを受けたのは生まれて初めて、いや、二度目である。本当は錯覚の関係のはずなのだけれど、理性で体はどうしようも無かった。
 あれから二日、あっという間に告別式を迎えてしまった。自分の両親の時はもっとかかったような気がしたが、白壁島は本土とは風習が違うのだろう。
 早朝から白壁島には本土から続々と弔問客が集まってきている。白壁島由来の人なのか、それとも悪意の見物客か。少なくとも、自称の親類筋が現れて骨肉の争いに至らなかったのは幸いなのかもしれない。
 昨夜の通夜では、俺は早々と焼香を済ませて自室へ逃げ込んだ。今日の告別式も初めは顔を出していたものの、またすぐにこうやって逃げ出してきている。自分は遺族でもなければ親類でもない、緒方家にとってはただの他人である。告別式には俺がここへ来た経緯すらも知らない人が多く詰め掛けてくるため、そこを無邪気に突かれたくはないのだ。
 葬儀の手伝いもせず、一人で自室の窓から庭を見下ろしていた。緒方家の広い庭には、それを埋め尽くそうというほどの弔問客がひしめいている。今頃、成美はあれらを一人一人挨拶を交わしたりしているのだろうか。昨夜の喪主としての挨拶をしている気丈な姿を思い返しながら、そうぼんやりと思った。
 明らかにどこかの企業の重役のような参列者は、焼香を済ませるや否やすぐさま成美の元へと群がっていた。次の当主が成美だと知っているため、今の内に企業として良好な関係を作っておきたいのだろう。若しくは、祖母とは違ってまだ子供だからうまく自分達に有利な条件を引き出せるやもと企んでいるかもしれない。そんな彼らを前に、成美は次期当主らしく毅然と振舞っていた。未だに呆然としていて、逃げるように部屋へ戻ってきた自分とは大違いである。
 この事態は、俺の好奇心がそもそもの発端では無かったのか。
 それは、通夜の席で遺影を前にした時にふと浮かんだ言葉である。
 水野さんのサインを気に留めなければ、悠里に蓬莱様の事を訊ねなければ、こんな状況にはならずに済んだはず。自分一人が何も知らず醜態だけ晒していたはずなのだ。それが、俺が小石を一つ投げただけで、起こした波紋が祖母を死へ追い込んでしまった。
 結果論と言えばそれまでである。けれど、白壁島における自分の存在の正当性がどうしても見付けられなかった。本当は居るべきでは無かった、島を掻き回しただけの存在でしかなかった、どうしてもそう自虐的に思ってしまう。
 ふと、弔問客の中に見覚えのある顔を見付けた。白壁島に住む人達である。
 彼らは、思惑通りになってさぞ満足だろうと思っていた。しかし今日の葬儀には、島中の人間が集まってきている。しかも、ほとんどが仕事を休んでまで来ているのだという。祖母がいなくなったから出来る事だ。そして驚く事に、葬儀の最中には涙を流す人が何人もいた。今でこうして眺めている時でさえも、すすり泣きながら帰っていく人が時折いる。何も知らない人がこの光景を見たら、故人はさずかし皆に好かれていたのだろうと思ってしまいそうだ。
 果たして祖母は、本当に嫌われていたのだろうか。
 この問いは、きっと誰もが答える事を嫌がるだろう。みんなどちらとも立場を明言したくないはずだ。この目の前の光景が証拠である。ただ、あの時の校長の言葉を暗黙の了解という風に体裁を整えておきたいだろう。仲間意識、連帯感、和、そういったものだ。
「裕樹君、ちょっといいかい?」
 部屋の外から呼ぶ声が聞こえてくる。声の主は森下老人だった。
「どうぞ。鍵はかかってませんから」
 失礼しますよと普段の軽い口調で入ってきた森下老人は、やはり喪服だった。手にはコンビニの袋をぶら下げている。
「ずっと御飯食べてないらしいじゃない。ほら、これ買ってきたから食べてよ」
 そう言って袋を押し付ける森下老人。うっすらと温かい感触が袋越しに伝わってきた。本当についさっきコンビニで買って温めて貰ったのだろう。
「すいません、なんか」
「いいんだよ。ほら、早く食べなよ。食べないと気が沈んじゃうよ」
 中に入っていたのは、おにぎりと唐揚げのカップ、そしていつも銘柄を決めて買っているミネラルウォーターだった。森下老人がこれを買ったのは、たまたま偶然なのか、それとも蓬莱様で知っていたから好みを気遣っての事なのか。そう思い浮かんだ時、自分は人の好意も素直に受けられなくなってしまったと感じ、酷く後悔した。
「いただきます」
 長く触っていなくとも、おにぎりの包装の解き方を忘れる事は無かった。てきぱきと破いて頭から思い切りかじりつく。ぱりっとした海苔の感触が実に心地良かった。コンビニのおにぎりなんて、食べたのはいつ以来だろうか。緒方家にいると、小腹が空くとすぐに軽食が用意されていたから、間食を買いに行ったことなどほとんど無かった。どこと無く懐かしいと思い、やはり自分はこっちの方が性に合う。そう思った。
「そよさんを恨まないでおくれ」
 突然、森下老人がそんな事を言った。
「彼女は真面目で責任感の強い人なんだ。だから、白壁島の繁栄のためには自分の全てを投げ売ったんだよ。生活どころか、望まぬ結婚までして尽くし続けたんだ。その結果は御覧の通り、みんな物には不自由しなくなった。そよちゃんのおかげさ。でもね、そよちゃんは何処かで間違っちゃったんだよ。発展のために人の心まで思い通りに変えようとするなんて。誰かこの間違いを止めてくれる人がいれば、きっとこんな事にはならなかったんだろうなあ」
 俺が祖母を恨んでいると思い、森下老人が祖母の事を弁解をしている。そう俺には見えた。
 森下老人は祖母の幼なじみである。誰よりも祖母の事を知っていて、ずっと生き様を見ていたのだろうか。だから、祖母が一方的に怨まれるのは忍びないのだろうか。
「実はね、僕とそよちゃんは昔、結婚の約束をしていたんだよ。子供同士の遊びじゃなくて、もっと大人になってからね」
「どうして……その、駄目になったんですか?」
「そよちゃんがね、別な男性を選んだから。どこかの銀行に勤めてて、将来は支店長になるっていう人。僕よりもずっと頭が良くて、仕事一筋でお酒は全く飲まない真面目な人だったんだ。当時は不景気だったから、そういう人が必要だったんだろうね。その点、僕は別荘を立てて客を集めようなんて言ってたんだから。あのキャンプ場の奥に行ったなら、その跡地があったでしょ。発電施設も備えて、順調に進んでたんだけどなあ。今となっては笑っちゃう昔話だよ。まあ、今のキャンプ場運営も悪くはないんだけどね」
「でも、森下さんはそれで良かったんですか?」
「まあ、フラれちゃった訳だからね。男と女のことだもん。後はうじうじするしかないよ。僕は商売気が無いから、張り合うにもいかなかったし」
 自分の事だというのに、さぞ可笑しそうに笑う森下老人。
 随分あっさりと答えるものだ。そう俺は思った。お互い納得しての事なのか、当時は納得していなかったものの、時間と共に気持ちの整理がついたからなのか。
 あの時、森下老人が放った言葉。幸せだった? その言葉に即答しなかった祖母は、一体どんな人生だったのだろうか。俺は、むしろ悲しいのは森下老人の方ではないかと思った。きっとそこで祖母が幸せだと即答していれば、自分の選択に後悔をしなかったはずだからだ。しかし、真相は訊ねなければ分からないし、あまり気安く踏み込んで良い領分ではない。
「成美ちゃんって、偉いですね。昨日の今日で、もう当主らしく振舞ってる」
「そよちゃんの昔もああだったよ。自分の事は二の次三の次、とにかく島を少しでも良くしようと働き詰めで」
「どうして、そんなに白壁島にこだわったんでしょうか?」
「緒方家に産まれた使命感、じゃあないかなあ」
「郷土愛?」
「そんな感じかな。でも、もっと悲壮なんだ。そよちゃんは。真面目だからね。それでも成美ちゃんの我が儘を聞いて、蓬莱様なんてものをでっちあげたのは、最後の情けか、成美ちゃんへのせめてもの罪滅ぼしだったのだろうね。だから、あまり恨まないで欲しいんだ」
 元々、俺は祖母を恨んだ事はない。ただ、突然の死が悲しいのと有り得ない事が立て続けて起こったせいで、自分の中が空っぽなのだ。今はそこに何も詰め込みたくはなかった。何も無いそこを気が済むまで眺めたい。そう思うのだ。
「裕樹君はこれからどうするんだい?」
「どうして欲しいです?」
「僕としては、このまま島に留まって欲しいなあ。君がいなくなったら、僕だけじゃない、みんな淋しがるよ」
「でも、俺って疫病神みたくないですか? 俺が留まったせいで、また誰か死んでしまったりするかも」
「なあに、この島は老人が多いもの。誰が死んだってみんなびっくりしないさ。歳を取るとね、そういう所は達観してくるもんなんだよ? 最近集まり悪いねーみんなもう歳だからわっはっはーって」
「そんなもんでしょうか」
「そうだ、それよりもちょっとこれ見てよ」
 森下老人が出したのは携帯だった。カメラで撮影した画像だったが、そこには釣り姿の森下老人が右手に大きな鯛を下げていた。浩介の話では、おそらくこの島で一番下手な釣り人の森下老人が、である。
「つい、この間ね。人生で初めてこんな大物が釣れたんだよ。やっぱり鯛はいいねえ。男の浪漫だよ」
「凄いですね、これは。顔よりもずっと大きい」
「だからさ、いよいよ僕にもお迎えかなって最初は思ったんだ。でもさ、僕はこれ、吉兆だと思うんだよ」
「吉兆?」
「蓬莱様のだよ」
 祖母に蓬莱様を渡された時、それが起こった時が蓬莱様に当主として認められた時だと言われた。しかしあれは方便のようなものと思っていたし、実際は蓬莱様自体がありもしない出鱈目である。
「裕樹君も成美ちゃんも、どういう選択をするのかは知らないし、僕も強制は出来ない。でもね、僕は二人に幸せになって欲しいんだ。一度は次期当主と呼ばれた二人が幸せになれば、白壁島もきっと本当に幸せになると思うよ」
 森下老人の気持ちは痛いぐらいに良く分かった。人が幸せな様を見ていると自分も幸せな気分になる。そして自分もそうなろうと努力する。それが島中に広がれば、きっと良い影響を及ぼすだろう。幸せの形として、それはある意味の正解かもしれない。
 でも、それは押し付けである。幸せになれと、それに背くような行動は許さない。そういう、真綿で締め付けるような強制だ。
 俺が、人の幸福を妬むような屈折した人間だったら、果たしてどうなるだろうか。そう思った。