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 出棺を終えると、屋敷内が急に閑散とした。あれほど集まっていた参列者達は、潮が引くように忽然と姿を消してしまう。火葬場まで着いて行ったのかとも思ったが、普通は親族しか参加はしないのだという。だから皆はもう帰ってしまったのだろう。
 当然だが、俺は親族では無いため出棺には付いて行かなかった。そもそも見送りにも出なかったし、頼まれても火葬場までは行く気にはなれなかった。多分、あまり深く関わり過ぎると、いつの間にか緒方家の親族面をしてしまいそうで、嫌だったのだと思う。数日前までの浮かれた自分を殴り飛ばしてやりたい気持ちだ。
 森下老人も帰り、部屋で一人ただ座り込んでいた。心境は、両親が急死した時に良く似ている。何をしようとしても気持ちが定まらないし、体から血液が流れ出ているかのように力が入らない。けれど、それがあまり良くない事だと、今度は自覚があった。食事も取ろうとしなければ食べず、眠ろうとしても眠る事も出来ないのが、正常な状態であるはずがないのだ。
 ふと思い立って、俺は体を動かす事にした。このまま座り込んでいると、いずれ横になるだろう。そうしたら二度と一人では起き上がれないような気がしたからだ。
 部屋を出て一階へと下りていく。普段なら一度や二度、使用人と擦れ違うのだが、それが一度も無かった。葬儀の片付けか何かがあるからだろう。しかし今は閑散としている方が出歩き易かった。人込みに遭遇するのは構わない。むしろ、集団の中の方が自分の存在感が希薄になるので気が楽になる。今、一番恐れているのは人の視線、それも無言の視線である。一体どういう意図で俺を見ているのか、それを考えるのがとても恐ろしいのだ。
 正面玄関から一人で靴を掃き中庭へと出る。緒方家の屋敷は非常に広い。ぐるりと一周もすれば、今の季節なら額に滲む程度の汗がかける。汗をかけば少しは気分も晴れるかもしれない。そんな思いで中庭へ繰り出した。
「あっ」
 歩き出して間も無く、中庭に一人の人影を見つけた。お互い接近した気配に気が付き、互いに振り向いて視線を合わせる。何となく俺は気まずいと思ったが、向こうはそうでもなく、いつものように意味深な眼差しでにっこり微笑んだ。
「斎場には行かなかったのね」
 そう悠里は微笑みながら近づく。服装は初めて見る学校の制服姿だった。ブレザーではあるものの正直野暮ったい色使いとカットが気にかかり、あまり似合っているとは言い難い。以前成美が、出来れば着たくは無いと言っていた事が頷ける姿だ。
「まあ、親戚でも何でもないですからね」
「もう割り切っちゃったの? 裕樹君って時々ドライね」
「落ち込みやすいんです。これで死んだ親族が三人ですよ? ドライにならないといつまでも引き摺っちゃいますよ」
「そっか……。ごめんね、私が余計な事言ったみたい」
「大丈夫ですよ。どうせこれから嫌ってほど同じ事言われるんですから。初めての人が悠里さんで良かったです」
 冗談ばかり、と悠里が指で額を小突いてくる。いつもの悠里の振る舞いだと俺は安堵した。まだ状況に気づいていなかった頃の悠里がそのまま目の前にいる事に安心感を覚える。随分と自分は世界観にこだわるものだ。そう思った。
「携帯の電源、ずっと切り放しじゃない。部屋に篭ってばかりで、心配したのよ?」
「すみません。なんか、人と話をする気分じゃなくて。心配かけました」
「ううん、気にしていたのは菊本の方よ。あいつ、凄く気に病んでたの。自分が裕樹君に恨まれるような事ばかりしていたって。裕樹君は一人の時でもあまり菊本のこと悪く言ったりしなかったでしょ? それがかえって堪えてるみたいなの。口にするのも疎ましいんじゃないかって」
「笑っちゃう話ですね」
「そうね。菊本って、体は大きいけれど昔から気が弱いのよ」
「違いますよ。俺の本心を知った気になって落ち込んでるのが笑えるって話です」
 意表を突かれたのだろうか、悠里は一瞬動きを止めて息を飲んだ。自分でも随分な皮肉だと思った。自分を卑下する訳でもなく悠里の立場を笑う訳でもない、ただ分かりきった虚勢を張るのが、遠回しな嫌味に聞こえなくも無い。それを悠里なら理解するだろうと思っての言葉である。悠里の反応も含め、我ながらあまり気分は良くはなかった。
「すみません、ちょっと俺、今はどうかしてるみたいです」
「いいの。それに、裕樹君でも怒る時は怒るんだなあって、ちょっと安心したから」
 にっこりと微笑む悠里に俺は何も言えなかった。俺は、人前で怒りを露にする事は恥ずかしい行為だと思っている。それは、怒りを見せるとほとんどの人は共感するどころか俺に対して一線を引いてしまい、場の空気が修復不能なほど悪くなってしまうからだ。人前で怒る事ほど無意味で非生産的な行為はないと俺は思っている。だから、そんな俺の今の行動を怒りだと評されたことは、俄かには承服しかねた。嫌味と怒りは全く別物で、その指摘は不適切だと言いたかった。けれど、怒ってなどいないと怒る矛盾した行動に繋がるような気がして、俺は反論もせずただ押し黙った。
「本当はね、私のせいなの」
 少しばかり間をあけた後、不意に悠里がそんな事を口にした。
「何がですか?」
「私が成美ちゃんをそそのかしたのよ。両親を亡くしてきっと弱気になっているだろうから、そこに付け込めば良い。そう言ったのよ」
「何気にえぐい事言いますね」
「そうね。でも、それが成美ちゃんにとっては縋れる藁だったの。想像だけでしかなかった事を現実にする最後のチャンスだってね」
 身の上が身の上だけあって、立場を選んではいられない。そこで思い切って踏み越えてしまったのだろう。手段はともかく、人からそこまで思われ求められるのは素直に嬉しい。けれど、自分はそれほどの人物であるのか、そんな不安があった。引っ込み思案という訳ではない。相手が、成美があまりに特殊な環境の人間だから気後れするのだ。俺は軽率な性格だが、自分を弁えているつもりだ。
「悠里さんは成美ちゃんをどうするつもりだったんですか? 成美ちゃんをそそのかした割に、変に俺に近づきましたよね」
「私はね、成美ちゃんとは幼馴染なの。だから妹も同然に可愛いの。そんな成美ちゃんに、変な男は付けたくないでしょ? あんな可愛いげの無い菊本なんか論外、で対抗馬で現れた裕樹君がどういう人なのか見極めたかったのよ。成美ちゃんに相応しければ応援したいって思ったし」
「女にだらしなくて泣かせるような駄目男だったら谷底に突き落とす、と」
「正解。よく出来ました」
「あの時に突き落とされなかったのは、お眼鏡に適ったって事ですか?」
「そう、私は好きよ。適うどころか、ちょっと出来過ぎなくらいね」
 随分と買い被られたものだ。自分の価値をそれほど認めていない俺にとっては歓迎すべきことである。だが手放しで喜ぶ気にはなれなかった。それは長く付き合った印象からの評価ではないからである。悠里が答え難い質問を幾つも俺に浴びせたのも、菊本が日常的に突っかかってくるのも、全て蓬莱様があったから。そうやって俺がどういう態度を取るのか、蓬莱様を通じて調べるためである。不意打ちのように人を調査をしたのだ。たとえ今はどう思っていようとも、それが紛れも無い事実である。
「しかし、悠里さんも酷いですね。今までのがずっと演技だったなんて傷つくな、正直」
「あら、別に全部が全部そうでもないわよ?」
「はい?」
「言ったはずよ? 次期当主のあなたに嘘はつかないって。もっとも、次期当主じゃなかったけど」
 真顔であの冗談だと思っていた事をもう一度言われ、急に照れ臭くなり頬を掻く。悠里には未だに俺の事を試しているのではないか、そんな気分になった。そうでなければ、俺をからかっているのだろう。自分にもある悪い癖だ。
「でも私は酷い事言われたのよ。成美に悪さしそうになったらお前が身代わりになれ、って。私は元々そのつもりだったけど、言われてやるのはちょっと気が滅入るでしょ? しかもついでに男としてまともかどうか調べろとか。……亡くなった人の事を悪く言うのは良くないけどさ、本音はこうなの。隠しても仕方ないし」
「まあ、俺は紳士だから大丈夫だったでしょ?」
「あら。紳士って、女性に全く手を出さない人は当てはまらないのよ?」
「じゃあ、これからは積極的に出しますよ。ケダモノって罵らないで下さいね」
「本当に変わらないのね。もう、許せたの? 自分がされた事を」
「そういう言い分で逃げてるだけです。本当は考えたくないんですよ」
「そう。でも、本当に逃げてるのかしら?」
「どうしてそんな事を?」
「もう、あなたの本音を聞く術は無いから」