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 出発の朝は誰も見送りには来なかった。当主でもない人間に挨拶は不要という訳ではなく、成美の意向のようだと使用人達の様子でそう思った。朝起こしに来た浩介は、今日は波が穏やかなので早く港に着けそうだと教えてくれ、朝食の後には部屋の掃除をどのようにするか訊ねられたからだ。
 緒方家以外の見送りもなかった。ただ、前日に突然菊本が訪ねて来てお土産を持たせてくれたのと、出掛けに悠里からいつもの調子のメールが来た。随分両極端な二人だ、そう思った。
 港までの道のりは一度歩いたきりのため、タクシーを呼んで向かった。車中、タクシーに乗ったのは随分久しぶりだという気持ちと、運転手が何か返答に困る質問をしてこないかと、半々だった。別段急ぐ訳でもないのだから、もう少し早く出て歩いていけば良かった。今更そう思う。
 タクシーが港に着いたのは出港の十分前で、既に乗船は始まっていた。すぐにチケットを買って乗り込んだものの、来た時と同じように乗客の姿はほとんど無かった。白壁島の実情を知ってからこの光景を見ると、これは白壁島が過疎が進んでいるというよりも、わざわざ本土へ渡らなくても生活が満たされるからだと思えてきた。緒方家は過疎を抑えるために、生活の利便性を計った開発を積極的に行ってきたという。その効果の現れなのだろう。
 荷物は収納へ収め、窓際の席へ着く。調度出港のアナウンスが入り、船の周りを船員がチェックして回る。それが終わると足場が外され、汽笛が鳴った。船がゆっくりと進み始め、椅子の下からエンジンの振動が伝わってくる。電車やバスとは違う乗り心地に、何となく気持ちが浮き立った。
 本土に着くまでしばらくかかる。それまで、以前は無かった読書の趣味を楽しむべく、あらかじめ購入しておいた小説を構えてめくった。
 すると、
「乗船中の読書は船酔いを起こしますよ」
 不意に隣から声をかけられ、驚きながらそちらを見る。
「お仕事は大丈夫なんですか?」
「あちらの港までです。お見送りさせて下さい」
 声の主は水野さんだった。水野さんは普段通りの薄い表情で隣の席へ腰を下ろす。
 思わぬ見送りに驚いた以上に、何か意図があるのではないかと咄嗟に警戒してしまった。白壁島での出来事が、俺にそういう勘繰りをさせる癖をつけてしまったらしい。あまり挙動不審にならぬよう、意識して視線を一点へ固定させる。
「まだ日程をお聞きしておりませんでした。お帰りはいつになるのでしょうか?」
「俺もちゃんとは決めてないです。多分、三日ぐらいかな。気持ちの整理がつかないと、もっとかかるかも。ずっと考えないように向き合わないようにしてきた事だからね」
「そうですか。御戻りの際は、是非御一報下さい。成美様で御都合が悪ければ、私で結構です」
「何か刺のある言い方だなあ。ところで、その成美ちゃんはどうです? 今朝は顔を見てないんですけど」
「そよ様のお部屋にいらっしゃいました。一応声をおかけしたのですが、何分折り合いが悪いもので」
「そういえば、何でですか? 前からちょっと気になっていたんですけど」
「私の、そよ様から言い使ったあなたに対する行動は、全て事前にお伝えしていたからです。それ以上はお察し下さい」
「ああ、なるほど……。でも、何故そんな事を?」
「知っているのと知っていないとでは、覚悟が違いますから」
 要するに、それでも自分は成美の味方をしてあげたつもりだ、という意味なのだろう。ならば祖母は、成美を幻滅させるために仕向けたのだろうか? そう考えると、つくづく自分は恐ろしい状況下でへらへらしていたものだと思う。
 ふと港までの時間を考え、意外に気まずい状況だと俺は思った。水野さんと二人きりになったのは授業の時しかない。多少の雑談はするものの、ほとんどは勉強に関する事である。歳の違いとか性別の違いとか以前に、水野さんが笑い話に花を咲かす姿が想像出来なかった。それだけに、何となく遠慮してしまう。
 だが、今更気兼ねしても仕方ない。ふと、ならばこの機会に前から気になっていた事を訊ねてみようと俺は思った。一時期は、本当に今訊いてしまいたいと気になって気になって仕方なかった事だ。
「あの、水野さん。訊いても良いですか? 水野さんの個人的な事についてなんですけど」
「どうぞ。蓬莱様はもうありませんから」
 つまり、今までは蓬莱様から露呈してしまうから、個人的な事は一切言っていなかったという事なのだろう。あの唐突な囁きもそのせいだ。
「俺が島に来てからの一連って、何か不自然なんですよね」
「皆があなたの人間性を試すような事をしていたからではないでしょうか」
「いえ、そうじゃなくて。なんかこう、調度何かの頃合いを待っていたかのように、俺に蓬莱様の事を気付かされた気がするんです。ですからね、誰かが予め事の青図を描いてたんじゃないかなって思ったんです」
「その誰かに心当たりが?」
「ええ、まあ」
 何気なく視線を水野さんに向けてみると、偶然にも同じタイミングで水野さんがこちらを見た。思わず息を飲んでしまう俺に対し、水野さんは普段の無表情のまま、また何気ない仕種で視線を前へ戻した。
「何故、そうと?」
「蓬莱様の事、俺に何度もそれとなく教えようとしたでしょう? 今となっては心当たりが幾つかあるから。悠里さんは俺が訊いたら教えてくれましたけど、一番最初に自分から教えようとしたのは水野さんだけですよ」
 それは、きちんと記録した上で断言している訳ではなかった。ほとんど印象の方が強い。けれど、印象が強いという事は、それだけ記憶に残るほど唐突だが不自然な出来事だった事にもなる。
 果たして、どんな反応をするのか。そう幾分の期待を込めながら水野さんの横顔を眺めていたものの、水野さんは脈一つ乱そうとはしなかった。
「仮にそうだとして、私に何のメリットがあるのでしょう?」
「さあ、分かりません」
「結論ありきの憶測ですね」
「陰謀論が好きなんで。何となくそう思っただけです。気を悪くしたらすみません」
 やはり、少々の事では微動だにすらしない。何となく予想は出来たが、ここまで見事に平静さを保つ姿はもはや芸術的とすら思う。
 本当にこの人には感情があるのだろうか? そんな事を脳裏に過ぎらせた時だった。
「それでは、たまには私も冗談を言ってみましょうか」
 おもむろに水野さんは振り向くと、こちらの目を真っ向から見据えて来た。それは、思わずたじろいでしまいそうなほど、凄味のある視線だった。
「な、何ですか?」
「それは、無知な少年を自分の都合良く仕込んだ後、島民の支持を盾に当主の婿へと押し上げ、自分は裏側で緒方家の旨味に預かるため」
 凄味を湛えた眼差しにひけを取らない、鋭さと威厳の篭った口調だった。怒っている訳ではなく、威圧している訳でもない。それは何となく分かった。ただ、それと同時に、これも単なるの演技だ、そう思った。
「どうでしょうか?」
「え、ええ……っ。ちょっと笑えないですね」
「本気と思いますか?」
「どうせ答えてはくれないでしょう?」
 水野さんは僅かに口許を綻ばせ、視線を前へ戻した。
 今の言葉は、一体どんな意図が込められているのだろう。もう一度だけ訊ねてみようと思ったが、思い直した。きっと水野さんは二度も言いたくはないだろう。何故かそう思ったからだ。
 それからはお互い無言だった。水野さんから雑談を振ってくるはずはなく、自分も自分で一旦交わす言葉が見付からないと、どうしても話題が見付からなかった。それでも何か話して間を持たせようとするものの、破ると不自然さが滲むほど沈黙が続いてしまい、そこで諦める事にした。
 そんな状況のまま、しばらくの間船に揺られ続けていた。時折携帯を開いて時間を確認すると、意外にも早く進んでいるように感じた。まだ、港へ着かなければ良いのに。一瞬だけそんな事を思ってしまう。
 やがて、間もなく港へ到着するアナウンスが聞こえてきた。そろそろ下りる準備をしなければならない。船が徐々に減速して行き、離れた席に座っていた僅かな乗客もばらばらと立ち上がり荷物を取り出し、出入口の方へ並び始めた。俺もまたそれに続き、鞄を収納から出して列の後ろへ並ぶ。水野さんはその後ろへ無言のまま続いた。
 船が停泊し、足場からコンクリートの埋め立てへ足場を移す。まだ少し足元が揺れている。そんな感覚があった。
「それじゃあ、俺。ここからすぐバスだから」
 振り返り、水野さんにそう伝える。水野さんはへ立ち欄干にそっと手を乗せまま、無言のまま小さく頷いた。
「最後に一つ訊ねても良いでしょうか?」
「いいですよ」
「あなたは、本当に白壁島へ戻って来るおつもりでしょうか?」
「どうかな」
「そうですか」
「あれ。もっと突っ込まないんですか?」
「強要した答えに意味はありませんから」
 自分の言を同じように返された。軽い皮肉なのかもしれない。そう苦笑する。
「ただ」
「ただ?」
「あなたの本音が聞けなくて、残念です」
 思っている事をそのまま口にし過ぎる。そう注意してくれたのは、他でもない、貴女ではなかったか。
 そんな思いを込めながら、俺は踵を返した。
「それじゃ」
「お気を付けていってらっしゃいませ」