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 今朝もいつもと同じ時刻にうちを出て学校へと向かった。今日もこれと言って変わった事はなく、一日何事もなく過ごせそうだという期待が持てる出だしである。多少靴紐の緩みが気になったが、この後にヒロシの家で待たされるのだから、その時にゆっくり直せばいい。強いて上げるならそのぐらいのものだ。
 夏休みが目の前をちらつき始めたこの時期、やはり気になるのはその直前に行われる期末テストだ。特に直近の授業ではテストと関係する内容がそこかしこに出てくるのだから気を抜く事は出来ない。たった一問の正誤で補習となるか否かの分かれ道になる事もある、俺はとにかく今の時期は意識をテストだけに絞っておきたかった。とどのつまり、面倒は持ってくるな、という事だ。
 さて、今朝はもう起きて準備を整えているだろうか。ヒロシの家の屋根が見え始める頃、俺はそんな事を考え始めた。ヒロシの性格からすると、昨夜は遅くまで馬鹿正直に窓へ張り付いていたに違いない。それで今朝もまた寝坊をしているだろう。どうせ幽霊など二度も見えるはずがない。しばらくはふてくされるかもしれないが、面倒を起こさない分は俺もテストに集中出来る。
 どんな顔をしてヒロシは現れるだろうか。そうあれこれ想像を巡らせていたのだが、ヒロシの家の玄関前までやって来た俺は予想外の出来事に驚かされた。なんとヒロシは既に登校の支度を整え、家の前で俺が迎えに来るのを待っていたのだ。
「トウマ、出たぞ出たぞ、また」
 俺を見つけるなりヒロシは、挨拶よりも先に興奮した声を上げながら駆け寄ってきた。
「は? 出たって、まさか昨日のあれか?」
「そう、幽霊。いやあ、前よりもはっきり見えたぜ今度は」
 本当に二度目も出たというのか?
 反射的に俺はヒロシを怪しんだ。幽霊など二度も連続で出るなど俄には信じ難いからだ。けれど、ヒロシは迷惑な行動こそ目立つが、俺に対して嘘をついた事はない。だから少なくとも、見てもいないのに見たと嘘をついているのではないらしい。
「で、どんなのが見えたんだ?」
「人魂だよ、人魂。すっげえでっかいの。すぐ消えたんだけどさ、でもほら、証拠として写真に撮ったんだぜ」
 そう言ってヒロシは真新しいインスタントカメラを見せた。昨日の帰りの途中にスーパーで買ったものだ。ストロボは付いているものの、正直なところ夜間でどこまで鮮明に撮影出来るのか疑問に思う。証拠として足り得るには、ただ何となく灯りが写っているだけではいけない。明らかに違和感のある存在となっていなければいけないのだ。ただ、あまりに不鮮明な写真になっていたとして、それを指摘した所でもきっとヒロシには俺が難癖をつけているだけにしか聞こえないだろう。何が写っているにせよ、俺は相当な譲歩を強いられそうである。
「途中にカメラ屋あっただろ? 朝に頼めば帰りには現像終わってるはずだぜ。よし、早く行くぞ」
「まだ開いてないだろ。あそこ、八時半じゃなかったか? それまで待ってたら学校に間に合わないぞ」
「だったら玄関の方回って直接頼むさ。店は開いてなくとも起きてるだろうし」
「無茶苦茶だな、それ」
 基本的に人の迷惑というものを考えないヒロシだ、何が何でも逸早く写真を現像したくてたまらないのだから、他の事など全く視界には入らないだろう。こういう時は必ず余計な問題や揉め事を起こすのだから、俺がしっかり手綱を引いてやらなければ期末試験前に夏休みの補修が決定してしまう事にもなりかねない。
 結局俺は、ヒロシがカメラ屋の自宅に直接乗り込んで無理やり現像を依頼してから学校へ向かう羽目になった。幾ら田舎町とは言っても非常識な行動には違いなく、その日は職員室から呼び出しを食らうのではないかと不安に駆られながら一日を過ごした。試験前の授業だというのに、ノートの取りこぼしも目立って増えるありさまだ。休み時間に誰かからノートを借りて埋めようとしたかったが、決まってヒロシが俺の所に来てあれこれと幽霊談義に花を咲かせるので全く進まない。そんな俺達の様子を試験前で神経質になっているクラスからは冷ややかな視線が時折向けられる。そして、ヒロシと同様に一夜漬けでどうにかしようというグループの何人かが幽霊という単語に反応し寄り集まってくる。とてもまともな勉強が出来る状態ではなかった。まるで俺までもが試験を放棄しているように見られるのは意外に苦痛で、試験前に勉強より優先する話ではないだろうと説き伏せてやりたかったが、それが出来れば初めから俺は振り回されてはいない。
 不安と肩身の狭さに苦悩しながら一日の授業が終わり放課後を迎える。ヒロシは予想していた通り、目を期待に輝かせながら満面の笑みで俺の元へ向かってきた。
「じゃあ、それじゃあ早く行くぞ」
「ああ、分かってる」
 午後の授業のノートを写したかったものの、それを理由にヒロシを待たせる事は不可能である。俺は早々に諦めノートは返却し帰り支度を急いだ。
 ヒロシは靴を履き変えるなりすぐさま商店街へ向かって駆け出した。そうなるであろう事を予め予測していた俺もすぐに追走する。全身からもはや待ちきれないという思いがありありと浮かんでいるのが分かる。いっそ前方不注意で車と接触してくれればしばらく平穏が訪れるのだが。そんな不謹慎な事さえ思い浮かべてしまうほど、とにかくヒロシの夢中になっている様が小憎らしいかった。
 カメラ屋に到着するなり、ヒロシは現像が済んだ写真をその場で開封し確かめた。出てきた写真は意外に枚数が多く、どうやら夢中で全フィルムをそれの撮影に使い果たしたようである。しかし遠目から見る限り写真はどれも真っ黒で、まるでフィルムを誤って感光してしまったようにも見える。そんな黒い写真をしきりに眺めているヒロシを、店員は訳も分からず苦笑いで見つめ、俺は仕事の邪魔をして申し訳ないと目を伏せる。
「ヒロシ、続きはうちでゆっくりやろう。ここじゃ店の邪魔になる」
「ああ、うん。そうだな……あ! ちょっとこれ見ろよトウマ!」
 いきなりヒロシが声を上げた。
 それが店の邪魔になるのだが。俺は返答するよりも先に、呆れの溜息を露骨について見せた。