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 時計の針は午前一時を過ぎている。
 電気を消したヒロシの部屋は、足下も見えないほどの暗闇に包まれている。あの雑然とした光景が脳裏にあるだけに、迂闊に歩くことを躊躇してしまう非常に恐ろしい空間だ。
 テーブルの上に読書灯を一つ点け、俺は教科書とノートを開き黙々と試験範囲の勉強をしていた。その傍ら、ヒロシはベッドを背もたれにして眠りこけていた。俺がゲームをさせず勉強を強要したせいである。俺がここに泊まっているのは、元々はヒロシの方が発端になっているはずなのに。本来ならそう非難するべき状況なのだけれど、想定内であるためか俺は文句も言わず律儀に起き続けている。
 日付が変わり、ヒロシが昨夜明かりを目撃した時刻も近づいている。俺は時折手を止め窓から墓地の方を双眼鏡で眺めた。けれど墓地は真っ暗で何も見えないばかりか霧まで立ちこめ始め、異変どころか元々の輪郭すら朧気である。
 小学生の頃、一度だけ学年行事の肝試しで夜の墓地に入った事がある。その頃はまだ幽霊の存在を信じていて、いつ暗がりからこの世の者ではないものが飛び出してくるかと怖くて仕方なかった。結局何も出ては来なかったのだけれど、こうして夜の墓地を見ていると、実は案外大した事は無いと終わってから急に熱が冷めた事を思い出す。墓地だろうと死亡事故現場だろうと、それらは単なる思い込みや記号でしかないのだ、科学で解明出来ない特別な何か起こるはずがない。それが怪現象に対する自分なりの結論だ。
 数分置きに窓辺へ向かい、数分間窓から墓地を双眼鏡で眺める。良く考えてみれば、人様の墓をそういう目で見続けるのは幽霊以前に非常識な行為である。幽霊を見てしまう事を恐ろしいとは思わないが、宗教的には何度も行うのは気が咎める行為だ。先祖の霊に対して失礼だから二度とするなという形なら、案外ヒロシを言いくるめる事が出来るかも知れない。
 何度かこの罰当たりな観察を続けている内に、時刻は午前二時を差した。昔から幽霊が出やすいと呼ばれる時間帯で、ヒロシが目撃したのもこの時間帯である。
 勉強の方は予定していた所まで終わった。不慣れな夜更かしをしたせいで瞼もいい加減重くなって来ている。あと、もうしばらく観察して何も無ければ、今夜は寝てしまおう。ヒロシを起こして何もない夜の墓地を一緒に眺めるなどと、そんな気分にはとてもなれない。
 俺は窓際のベッドの端へ腰掛け、放心したようにただボーッと墓地を眺めた。勉強疲れもあって頭がうまく回っておらず、双眼鏡を支えるため持ち上げる手も億劫でならなかった。墓地の様子にはまるで変化はない。多少霧が深くなってきたくらいだ。
 もしこれが昼間であれば、少しは退屈が無くて済んだかもしれない。双眼鏡には暗視機能など備わってはいないのだから、夜ではまともに見える景色などたかが知れている。誰か他人の生活を覗き見られたら、と邪悪な考えも過ぎったがそんなうまい話が現実にあるはずもなく、双眼鏡で幾ら見渡してもどこの窓も電気が消され厚いカーテンが降りている。
 眠気を紛らわす目的も兼ねて夜の風景をあちこち見回し、ふと気が付けば更に時間を三十分も浪費してしまった。
 もういい加減疲れ果てた。これだけやって何も変化がないのだから、きっと今夜は何も出ないだろう。
 すっかりやる気も無くした俺は、それでも最後にもう一度だけと双眼鏡を墓地へ向けた。我ながら律儀と思えるほど余念の無い確認である。しかし、それで何かが見つかるとは到底思えない。
 一通り見回ったら寝てしまおう。そう思ったその時だった。
「ん?」
 何気なく向けた双眼鏡の狭い視界、その隅を一瞬何かが通り抜けた。そんな風に見えた。
 何かの見間違いだろうが、どうやら相当疲れているらしい。疲れで目が霞んでいるに違いない。そう俺は口元に微苦笑を浮かべる。自分までもヒロシのような事を言い出しては始末におけない。
 夜の墓地に人がいるはずがないのだ。もう一度ちゃんと確認しよう。
 目を擦り再度双眼鏡を覗く。そして、そこに見えるのは先ほどまでと同じ何事もない墓地の風景のはず。だが、俺の期待はあっさり裏切られた。
「え……?」
 視界に写り込んだのは、深い霧の立ちこめる墓地の風景。あちこちに墓石や卒塔婆が立ち並ぶ中、その一角に立つ水汲み場らしい小さな建物の片隅には、明らかに人間が屈み込んでいるのに酷似した背中があった。
 何故、こんな夜中に墓地に人がいるのだろうか。
 冷静に分析を試みようとするものの、思わぬ展開にすっかり浮き足立ってまともな考えが出来なくなっていた。墓地の暗さに深い霧、墓石などの見間違いを起こしかねない要素は幾らでもあるのだから、あれは何か別なものを人間の背中と誤認しているだけだ。なんとかそれだけの理論的な否定は出来たが、最初に人間の背中だと思い込んでしまったため、どう見ても人間の背中にしか見えてこない。
 心臓が激しく高鳴り、腋にふつふつと冷たい汗が浮かぶ。車にはねられた猫の死体を見た時と非常に良く似た気分だった。
 あれは何だ。あれは何だ。そう何度も同じ疑問符を浮かべながら、俺は取り憑かれたように水汲み場で屈み込むその人間に見入っていた。不快感を覚えるなら見なければいい。理屈ではそれが分かっていた。しかし、何か特別な力でも働いているかのように、俺はそこから目が離せなかった。
「う、うーん……」
 突然、俺の背後からヒロシの眠たげなうなり声が聞こえる。あまりに墓地の方へ集中していた俺は不意を突かれ、寸出の所で声を出してしまいそうなほど驚き、その弾みで背筋を勢い良く伸ばす。
「あれ? トウマ、どうかしたのか?」
「え? ああ、いや……」
 墓地に何かいる。
 これまで否定的だった自分の立場もあるせいか、そうヒロシにはすぐ口にする事が出来なかった。
「何か見えたか?」
「悪い、ちょっと黙ってろ」
 双眼鏡を構えている俺へ期待の眼差しを向けるヒロシ、けれど俺はろくに返答もせずすぐに双眼鏡を構え直し墓地を見た。しかし、既に水汲み場からはあの人物の姿は消え去っていた。更に墓地中へ双眼鏡を向け探し回ってみるものの、深い霧や所々に飛び出す雑木林の枝に阻まれて隅々までは見渡せず、遂にあの人物は見つける事が出来なかった。