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 俺はヒロシと共にしばし唖然としながらそれを見つめていた。
 今、俺は、火の玉を見ている。そうとしか解釈のしようのない目の前の光景に、思考が完全に止まってしまう。きっと何かを見間違っているに違いない。科学的な仕掛けがあるはずだ。その程度の疑いはすぐ頭に浮かびはしたが、それは一体何のために、という疑問により根幹が揺らいでしまう。
 そうしている内に火の玉は唐突に二つへ増殖すると、ふわふわと宙に浮かびながらじゃれ合う犬の様に円を描き始める。その中心には未だ懐中電灯の帯が左右に動いており、主は自分の周囲を飛び交う火の玉を気にしているように見える。しかし、驚きの声を上げたり恐怖に戦き逃げ出すような素振りは一切見られない。火の玉そのものに気づいていない可能性も考えたが、その割に懐中電灯は的確に火の玉の動きを追っている。
 簡単には言い表せないほど異様な光景だった。懐中電灯の主はおそらく住職の孫だろう。しかし、あの火の玉は何なのか。まるで主を意図的に取り囲んでいるようにも見える。幽霊がいるなど俄かには信じ難いが、こんな常識に当てはめて考える事が難しい出来事を前に冷静に対応するのも不自然に思う。
 以前ここで何が起こっているのかを話し合った時に、ヒロシが幽霊と戦っているなどとふざけて言った事が頭を過ぎる。この光景は、あたかも火の玉と戦っているように見えなくも無い。しかしそれは、一番常識の外側にあるはずのシチュエーションだ。そんな事は断じてあるはずがない。
 混乱のあまり状況をまともに分析出来ていない事がはっきり自覚していた。ダイビング中にパニックを起こしたのと同じように、こういう例外中の例外が重なったような場合の行動も予め決めてある。速やかにこの場から避難するのだ。
 ヒロシはともかく、俺自身もこの状況を前に何もせず逃げ出すのは確かに惜しいと思う。幽霊の存在云々を論じるだけならともかく、今ここで行動を起こせば身元のはっきりとした人物の証言や物証などが一挙に揃えられるからだ。衆目を集める事に興味は無くとも、貴重な知的資源には違い無い。その機会を逃す事はただただ純粋に惜しいのだ。しかし、一番大事なのは何としても解明してやろうという覚悟ではない。何かに遭遇した際、どうせなら最後まで、とずるずる引き摺ってしまうような、危機意識が好奇心に負けない強い自制心だ。
 わざわざ危険を冒すほど強い信念を持ってやっている訳ではない。俺は視線を意識的に目の前から逸らし、この場所から最も近い逃走ルートを詮索する。塀際を歩いていた事が幸いしてか、勝手口等の比較的脱出し易いルートが近くにある。このまま息を殺して行動すれば楽に避難する事が出来るだろう。
 いささか後ろ髪引かれる思いは残しつつも、俺は傍らのヒロシに脱出の合図を送ろうとする。しかし、その時だった。
 突如闇夜を照らす青白い閃光。夜の闇に覆われた墓地の風景が、手の届くほんの周辺だけ一瞬鮮やかに照らし出される。間近にあった墓石ばかりか卒塔婆の戒名までが読めるほど、一瞬の光量は恐ろしい程あった。そんな光を出す機材など一つしかない。俺は今構えているのは、スイッチを切った懐中電灯だけである。そう、犯人はヒロシのカメラのストロボだ。
「ばっ、お前、何やってる!」
 俺は思わずヒロシの頭を引っ叩いてしまった。声こそ潜めてはいたものの、あまりに突然の事で気が動転していたから、本当に潜め切れていたかは分からない。その上、ヒロシは声を抑えろと必死にジェスチャーし、まるで俺が悪い事をしているかのような態度を取る。今度は拳でぶん殴ろうかと思うほど急な怒りに俺は震える。けれど怒りに我を忘れて良い状況ではなく、俺はとにかく現状を把握しようと自らを落ち着け周囲に耳を澄ます。
「誰だ!」
 そして案の定、怒りに満ちた声が墓地中に響いた。懐中電灯の光は急に落ち着きを無くし、嘗め回すように周囲を無闇やたらに断続的に照らす。
 ヒロシがそれを指差し、うんうんと意味ありげに頷く。こちらに気づいた、という意味もそうだが、それよりも声の主を強調したいような仕草だった。その心は俺にも十分理解できた。懐中電灯を振り回す声の主は、明らかに住職の孫のものだった。