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 意図も目的も分からないが、とにかく深夜の墓地に一人で居るような人間に見つかった。それは内蔵を鷲掴みにされるような恐怖を伴うものだった。
 速やかにこの場から立ち去らなければ、具体的に身に危険が及ぶ。
「逃げるぞ、さすがにまずい」
「あ、ああ、ごめん……」
「呆けてんな。行くぞ」
 ヒロシは珍しく思考の停止した自失状態だった。自分の迂闊な行動がどんな結果を及ぼしたのか、理解する以上に受け止め切れていない様子である。
 これ以上ヒロシを責める気になれる訳もなく、またそんな悠長な状況でもない。俺はヒロシの腕を掴み、姿勢を低く保ちながら這うように退路を目指す。向こうはまだ俺達がどこにいるのか知らないのだから、息を潜め懐中電灯の光を避け続ければかなりの時間は稼げる。
 緊急時はそれぞれ別の経路で避難するのが約束である。しかし俺はあえて二人で一緒に避難する事にした。我を失いかけているヒロシを一人にするのはかえって危険だと思ったからだ。それに互いが互いを見捨てないのは一番の鉄則である。
「おい、誰だ! 出て来い! ここへ何をしに来た!」
 住職の孫は怒りも露わな強い口調で周囲を懐中電灯で照らしながら声を張り上げる。声の向く方からすると俺達の居場所にはまだ気づいていないようだった。しかし夜中の墓地のような普通に話す事も躊躇ってしまう場所で、平然と声を張り上げる様には常軌を逸した物が感じられ、背筋が強ばる。
 まるで昆虫か何かのように、湿っぽい墓地の土の上を這いずり回りながら逃げ道をひたすら目指した。行く先は正門から少し離れた所にある勝手口だ。表からでは柱の陰に隠れ目立ち難いのだが、前もって確認した時は鍵らしい鍵が見当たらなかったため、確実に逃げられる場所だ。それに、正門を目指せば確実に行き当たる位置も好都合だ。冷静に努めようとしてはいるもののどんなミスを犯してもおかしくはない精神状態なのだ、多少遠回りでも明確で確実な場所の方が安全である。
「墓荒らしにでも来たのか? 今に仏罰が下るぞ! おとなしく出て来い!」
 住職の孫の怒鳴り声は先程よりもやや遠ざかった。しかし、まだ同じ敷地内にいる内は安心出来ない。向こうにしてみればここは庭のようなところなのだから、こちらと同じ感覚で動いているという思い込みを持つべきではない。
 遠ざかりつつも未だはっきり聞こえる住職の孫の声を気にしながら這い摺り続け、ようやく正門が見えるほどの場所まで辿り着いた。本来なら歩けばすぐの距離のはずだが、地面を這っていたせいでかなりの時間がかかってしまった。恐怖で荒くなる呼吸を無理矢理鎮めているため、息苦しさが全身の疲労感を余計に際立たせる。疲れは焦りを煽り、焦りは短絡的な行動を誘う。まるで念仏のように冷静の二文字を繰り返しては来たが、外と目と鼻の先まで来ると流石に浮き足立つような気分になってくる。
「トウマ、早く、捕まったら殺される。早く警察行こう。そうだ、警察呼んだ方がいいって」
「それは後で考えよう。まずは逃げる方が優先だ。ほら、もっと頭下げろ」
 ヒロシに急かされるものの、俺は尚も慎重に地面を這いながら目的の勝手口を目指した。俺もまたヒロシと同様に、見つかれば殺される、という恐怖で一杯になっている。すぐにでも駆け足で出口から抜け出したいが、運悪く何らかの理由で勝手口が塞がっていた上に住職の孫にまで見つかってしまえば目も当てられない。そんな想像が頭をしきりに過ぎるからこそ、たとえどんなに小さくともリスクを望んで冒す気にはなれないのだ。
 実際よりも長く感じる時間をかけ、どうにか勝手口へと無事に辿り着く。住職の孫の声は遠ざかったためか聞こえなくなっていたが、位置が分かり難くなっただけで不安は余計に強まる。その焦りから、勝手口が引き戸である事も忘れて押したり引いたりを繰り返し慌てふためく。
 引き手をかける場所を手繰り、力を込めて引く。戸は全て古い木で出来ているため滑りは悪く、サッシ戸のようにスムーズな開閉は出来ない。力ずくで引けば開く事は予め分かってはいるが、状況が状況だけにまさか開かないのではと焦ってしまう。
 ごりごりと摺り下ろすような音を立てながら、半身をねじ込めるほどの隙間をようやく開く。俺は先にヒロシをそこへ押し込み外へと出した。ヒロシは前へつんのめるように飛び出しそのまま転倒する。痛いだのと文句をこぼすが、そういう反応をする辺りどうやら少しは調子は取り戻しつつあるようだ。
 続いて自分も戸の端に手をかけ体をねじ込む。もう少し開ければ良いのだが、滑りの悪い戸には長々と付き合ってはいられない。これだけ開けば、後は力ずくで圧し通るだけだ。
「ヒロシ、手を貸せ。引っ張ってくれ」
 そうヒロシに手を伸ばし、ヒロシが土にまみれた手を払いながらそれに応じようとする。しかし寸前にその手が止まった。
「ト、ト、おい、あれ!」
 突如、ヒロシは通路の天井を指差し、洒落か冗談のような表情でその場に固まる。
 何を大声を出す、せっかく居場所はまだ知られていないというのに。
 俺は眉をひそめながらヒロシの指差す先、通路の天井を見上げる。
「げ……」
 そして、辛うじて声は抑えたものの俺もヒロシと同じくへんてこな表情でその場に凍り付いた。
 見上げたそのすぐ側、丁度天井の角の奥まった所だ。そこには想像もしなかった得体の知れないものが吊るされていた。驚きのあまり解析するのを放棄しかけたが、二人揃って放心する訳にはいかないと何とか我に返り、あえて真っ向からそれを見返す。
 それは人間の首としか思えない代物だった。髪がやや長く顔立ちは若い女性、どうしてそこに浮いているかは分からないが丁度俺達を睨みつけるような顔の向きである。
「う、うわっ、これマジでヤバイって! 早く警察!」
「あ、ああ……とにかく先に俺を引っ張り出してくれ」
 恐怖と驚愕が入り乱れ、ヒロシがあたふたと奇妙な足踏みをしながら腕やら足やらを振り回す。しかし俺は対照的に、やけに冷静にそれを見ていた。
 人間の猟奇死体などまともに見られるほど慣れていない。辛うじて懐中電灯の光が当たらずぼやけて見えるから実感がわいていないだけだと、最初はそう思っていた。しかし、あまりに突拍子も無いものを見たせいか、実感がわくよりも逆に疑う余裕が出て来始めた。
 古寺の敷地に死体など、そんな事が早々あるはずがない。それも、喧嘩別れしたはずの孫が戻ってきてすぐなど、タイミングも良すぎる。何もかもがあまりに出来過ぎている構図だ。
 何故、寺に露骨な死体が置かれている? いや、そもそもこれは本物なのだろうか?
 そう疑った直後だった。ある推測が頭を過ぎり、俺は脱力感にも似た速さで全身から緊張が抜け落ちた。
 住職の孫がしている事、それはおそらくこの推測通りに違いない。
 その予想を確信にするべく、俺は慌てふためき声を垂れ流しにするヒロシの頭を一度はたいた。
「落ち着けって。それよりも、あれ。ちょっと懐中電灯で照らして見ろよ」
「は? な、なんでだよ!」
「いいから。まあ何て言うかさ、またお前俺のこと下らない事に巻き込んだだろ」