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 僕が放課後に一人で佇む場所は一つではない。図書室に体育館裏、これは先生に見つかると怒られるのだが、図工準備室なども候補にある。ただ、最近は注意の目が厳しくてあまり近づいていない。
 まだ本格的な部活も始まっていない学年の僕は、放課後はやることもなく無為に過ごしてばかりだった。友達と遊びに行くにしても、実質門限の無い僕にとって門限に帰宅するのを見送るのは興醒めのするし、かと言って校則を破りどこかへ寄り道する度胸も無く、結果として下校時刻になるまで校内に残るのが常である。
 その日も僕は図書室で一人時間を潰していた。五時限目が終わった後に図書室へやってくる人間はどれも一癖あって、大抵が僕と同じく放課後誰かと遊びに行く当てがなさそうな顔をしている。ただ、例外として図書委員の当番だけは携帯でしきりにメールを送ったり、持ち込んだ漫画や携帯ゲーム機で暇を持て余す姿が見られる。何かしらの役割に就かなければならないのなら楽が出来る役目にしようと画策し、まんまと成功したのだろう。来年は自分も同じ立場になるのだから、そこは視野に入れておこうと思う。
 時計の針が五時に差し掛かろうという頃、下校を促す放送が流れ始める。あと数分もすると見回り担当の教師がやって来て、生徒は残らず追い出されるだろう。僕も追い出される準備をすべく、読んでいた本を閉じ棚へ戻した。
 図書室には既に生徒の姿は無く、残っているのは僕だけだった。図書委員の姿も無くなっている。施錠の仕事が残っているのだが、またサボって帰ってしまったのだろう。そのせいでまた教師が機嫌を損ねるだろうから、早めに出てしまうのが得策か。
 人気のない図書室というのは一般的に不気味とされるのだが、いつもこの時間帯まで居座る僕には居心地の良い物静かな空間である。耳鳴りのような静寂は苦手だが、窓越しに聞こえる部活動に勤しむ歓声が適度に騒がせてくれるのが丁度良い。ただ、いささか来年の部活動の選択に対する不安感も強まってきているのが気になる。
「さて、そろそろ帰るかな」
 誰もいない事にかこつけ、僕はわざとらしくおどけて自分の行動を声に出す。ひょうきんさをアピールするのは性ではないが、たまに演じると気分が盛り上がるのだ。とても人には見せられないが、そういう気分になりたい事もある。
 ランドセルの元へ、校内では禁止されている口笛を吹きながら軽いステップを踏む。そんな正視し難い行動を繰り広げていた、その真っ最中だった。突然、僕の耳に自分以外が室内で発する物音が聞こえ、思わず全ての行動を止めその場に硬直してしまう。きっと何かの聞き間違いだ。そう祈りながらしばし耳を澄ませていたものの、もう一度その音ははっきりと聞こえてきた。今度は口笛も吹いていないため、誰何の物音が新聞をめくる音と分かる程に。
 慌てる僕は仇敵をいぶり出すような勢いで図書室を見渡す。それで物音の主はすぐに見つける事が出来た。これまで気付かなかったのだが、図書室の最も隅にあるスペースに他にも生徒が残っていたようだ。そこは新聞しか置いていないため普段から生徒が近寄る事が無く、時折教師がくるので僕自身も近づかないよう心がけている。
 思わぬ居残りの存在に焦る僕は、どうフォローしたら良いものかと硬直したままそこへ困惑の視線を注ぐ。すると、その無言の視線に気付いた彼女はおもむろに顔を上げ僕と視線を合わす。僕は表情に困り、苦笑。しかし彼女は無愛想に視線を外すと、テーブルに広げた新聞へ戻した。
 新聞コーナーを広々と陣取る彼女、僕には見覚えがある。同じクラスの生徒だ。ただ、近寄り難い陰気な空気をいつもまとっているせいで、一度しか話をした事がない。
 その無表情さを失笑と受け取った僕は、自らの気まずさを紛らわせるべく、彼女の元へ向かい話しかける。
「えっと、沢本さん? まだ残ってたんだ。気付かなかったよ」
 沢本紫。少し考え込んで思い出せたそれが、彼女の名前だ。
 すると彼女はゆっくりと顔を上げ、じっとこちらをのぞき込むような視線を向けてきた。あまりに臆する様子のない行動に、僕は不覚にもたじろがされてしまう。
「私はいつもここにいるわ。河村君が昨日もテレビの物真似をしながら帰った事も知ってる」
「え? あ、いや、その……」
「そうよ。そっちが今まで私に気付かなかった、それだけ」
 居るなら居ると、正直声を掛けて欲しかった。けれど、淡々と感情のこもらない口調で話す彼女の様子には、そんな反論など気が咎めてしまう。
 こんな事なら初めから無視しておけば良かった。そんな後悔が僕にため息をつかせる。
 すると、
「今、死にたいって思ってる?」
 唐突に彼女から質問を投げかけてきた。
 内容もそうだが、何よりも僕は彼女の方から質問してきた事に驚いてしまった。お世辞にもコミュニケーション能力が十分とは言えなさそうな彼女である、このまま興味も無いとばかりに突き放されるものとばかり僕は思っていた。
 だが、その質問が異質だ。仲の良い友達同士でなら、この程度の恥なら軽い皮肉の一つとして捉え笑い飛ばせるのだが、これほど無表情無機質に投げかけられては、本当に文面通りの質問を極めてシビアに向けられているとしか捉える事が出来ない。
 予想外に重いその質問に僕の舌も重みを増す。
「それほどじゃないけど……ただ、出来れば誰にも知られて欲しくないかなあっていう……まあ、そんな感じ」
「そう」
 たった一言で答える。しかし彼女は視線を外さなかった。まるで僕に、もっと他に言うべき事があるのではないかとプレッシャーをかけているようにすら思う。
 俄に別の困惑を覚え始めた僕に、彼女はまた新たに質問を投げかけてきた。
「もし、私がこの事を誰かに漏らすって言ったら、私を殺そうって思う?」
「は? 僕が何を?」
「口封じ。したいって思うでしょ?」
 一体何を言い出すのか。
 僕は質問よりもむしろ、彼女自身の正気を疑いたくなった。この状況で、何故殺す死なすの話に発展するのだろうか。幾ら何でも、その程度の分別が付けられるほどの教育は誰しもが受けている。そんな質問の意味など本人も分かり切っているはずだ。
 これは明らかにからかわれている。口数が少ない人はまともな会話が出来るというイメージに囚われ過ぎているのだ。コミュニケーションが取れないのは、そういう意地の悪さが遠因にあるに過ぎない。
 相手にするのはよそう。自分が馬鹿を見るだけだ。
 きっと今僕は、さも失望の色を隠せない表情をしているはずだ。そう思いながら踵を返しかけると、彼女はそんな僕の心境を見透かしたかのような言葉を次いだ。
「ごめんね、からかってる訳じゃないの。ただ、参考にしたかっただけ」
「何の参考に?」
「知ってる? 昔、そこのベランダから生徒が一人、突き落とされて死んだのよ」
「知ってるよ。そんな噂もあったね」
「噂じゃないわ。昭和の初め、校舎が改装する前に実際に起こった事よ。新聞の記事も見つけたもの」
「本当に? いや、本当だとしてもさ、それが何の参考になるんだよ」
「犯人の心理よ。犯行時はどう思っていたとか、何がきっかけでそこへ至ったとか」
「まさか犯人を捜し出すつもり? 刑事とか名探偵みたいに」
「いいえ。単純にどこまで重なっているのか知りたいの」
「何が?」
「私と、殺人犯の考え方」
 そう断言する彼女の瞳の奥が一瞬不気味な色を見せたように僕は思った。
 返そうとした踵が止まってしまった事に、僕は今更ながら気が付いた。話の先が気になるのか、それとも彼女の雰囲気に飲み込まれているのか、困惑が続く僕の頭ではとても理解することが出来なかった。