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 夕方近くという事もあって、役場の駐車場は車で溢れかえっていた。間もなく窓口の受付時間が終わるので、みんな慌てて駆け込んでいるのだろう。終わりに近づくほど込み合うのは、色々な物事に共通してありがちな事だ。
 町民プールは役場の丁度裏手に位置し、間には車の込み合っている駐車場が挟んであるため、表側からは僕達が入り込んでいる姿もほとんど目に留まらないだろう。昔来た時は表からプールの入り口まで案内路が敷かれていたのだが、実質営業はしていないのだから綺麗に取り払われている。そのためみんなもこのプールは閉鎖してしまったものだと思っているだろうし、注意して見るような人はいないはずだ。
 僕達は人目を避けて役場の敷地を回り込みながら裏手へ回った。町民プールは、もはや頭に旧の文字を付けても違和感がないほど旧態依然とした佇まいだった。周囲に張り巡らされた鉄格子も錆だらけで、本来施されていたはずの着色はどこにも残っていない。試しに指でなぞってみると、指先にはべっとりと赤黒い汚れがこびりついた。
 鉄格子の外から中を覗いて見る。プールサイドに敷き詰められている石板は欠けが目立つ上に間から雑草が生い茂っていた。プールの底は元の色が分からぬほど泥などの汚れが溜まり、枯れ葉や深緑のカビがこれでもかとこびりついている。良く目を凝らせば無数の羽虫も飛び回っていて、あまりの不潔さに顔ごと背けてしまう。けれど余計な想像力が見たばかりの惨状を増幅し、込み上げて来た吐き気を必死で抑え込む。予想以上に荒れ果てている。僕は少しだけここに来たことを後悔した。
「河村君、どうかした?」
「い、いや……何でもない」
 一方彼女はこの惨状を見ているにも関わらず平然といつもの無表情だった。女子が動じていないのに、気持ち悪くて吐きそうだとか弱音ははけない。何事も無かったかのように平静さを装ってはみたが、目に浮かんだ涙は完全に見られてしまっている。そこを指摘されるかとも思ったが、彼女は言葉通り受け取ったらしくそのまま出入り口の方へ向かってしまった。突き放された訳ではないが、気がついていない振りをされるのも堪える。冗談めいて笑い飛ばしてくれればいいのだけど、それはそれで彼女のカラーではない。
 出入り口は刑務所にあるかのような重厚な鉄格子の扉になっている。柵の間隔は意外と狭く、僕の腕でも肘までも通りそうにない。表には鉄棒を削って作ったかのような閂がはめられ、そこには錆び付いた大きな南京錠がぶら下がっている。都会なら失笑する戸締りだが、田舎のプールではこんなものが妥当だろう。少なくともこれで子供なら無断で侵入する事は出来なくなる。
「実質営業はしてなくても、鍵ぐらいは掛けてるみたいだね」
「そうね」
 鍵が掛かっていれば中に入る事は出来ない。あの汚らしいプールを間近で見ないで済む。密かにそう安堵しているのも束の間、彼女は無言のまま次の行動に出た。
「沢本さん? どうしたの?」
 彼女はプールに隣接するプレハブへ向かうと、その周囲をうろうろと歩き回り始めた。
 そのプレハブは係員が待機するために建てられたものだろう。今となってはカーテンも無く、中もおそらく何も残ってはいないはずだ。そんな所を見ても何か面白いものがあるとは思えない。僕は小さな溜息をつき彼女の動向を見守っていた。そんな僕を後目に、彼女はひとしきり周囲を回り調べた後、おもむろにガラスについた乾いた泥を払って中を覗き込み始める。
「多分、ここに合鍵があると思うの」
「まさか。全部撤去してるはずだよ」
「見て。机とかそのまま残ってるから」
 そう言われ、僕もプレハブの元へ向かいガラスの泥を払って中を覗き込む。すると確かに彼女の言う通り、中には事務用の机やロッカーがそのまま残っていた。これも長い間使われていないのだろうが、随分と埃は溜まってはいたものの建物内にあった分あまり劣化は見られない。
 鍵があるとしたら机の中が定番だけど、もしかすると鍵掛けが壁についているかもしれない。そんな事を思いながら室内を首の角度を変えながら出来る限り見回す。その僕の隣から背後を通りどこかへ行ってしまう彼女の気配を感じた。間も無く近くからドアを開けようとするものの鍵に阻まれたらしい金属音が、角を曲がった先から聞こえて来る。彼女は大胆にもこの中へ入ろうとしたようだ。
「無理だって。ここも鍵ぐらいかけてるさ」
 けれど彼女は諦め切れないのか、しばらくガチャガチャと開かないドアを揺らし続ける。幾らプレハブでも、子供の力で何とかなるほど安い作りをしているはずはない。どう力を込めようとも鍵が掛かっている以上は開くはずも無い。
 無駄な努力を続けているな、と思っていると程無くドアをこじ開けようとする音が止んだ。流石に諦めたか。そう微苦笑し自分も彼女の元へ行こうと窓の傍を離れかけたその時だった。突然、バリン、と小さく響く明らかにガラスを砕いたとしか思えない音が耳に飛び込んできた。
「……え?」
 まさか、と僕は思った。彼女は、ドアが開かないからガラスを破って開錠したのだろうか? けれど、それは犯罪だ。それぐらい誰だって分かるはずなのに。
 きっと何かの聞き違いだろう。何度も自分へ言い聞かせてはみたが、今度は鍵に阻まれず最後まで開いたドアの音が聞こえてきたため、もはや自分の憶測は確定的だと思わざるを得なかった。僕はすぐさま彼女の元へ飛んでいく。
 プレハブの出入り口はアルミ製の比較的軽い引き戸である。手を掛ける窪みが少々小さいがドア自体が軽いため、サッシが綺麗ならさほど力も要らず開け閉めが出来る。既に彼女はドアを開け中へ入ってしまった後で、ドアは開けっ放しだった。そして嫌でも目を引くのは、手を掛ける部分のすぐ上にあるガラス窓の小さな穴。的確に内側の鍵のすぐ傍に穴が開いていて、ここから手を入れて鍵を開けたものと思われる。
「河村君、そこガラスの破片があるから気をつけて」
 彼女はそう言いながらプレハブの中から悪びれる事も無く現れた。手にはプールの南京錠のものらしい鍵を持っている。
「沢本さん、一体どういうつもり?」
「鍵を持ってくるためよ」
「何のために鍵を?」
「プールへ入るためよ」
「無断侵入だって分かるよね?」
「そうね」
「バレたら怒られるよ」
「バレなきゃ怒られないわ」
 分かっていてやっているのか。
 僕は呆れて物が言えなかった。そこまで平然と自らの犯罪を肯定されると、理路整然と言い聞かせる事が馬鹿らしく思えてくる。
 彼女は何事も無かったかのようにそのままプールの方へ向かうと、盗んで来た鍵で南京錠を開けた。そして閂を抜こうとするが、錆び付いているせいかうまく抜く事が出来ない。それでもめげる事なく、彼女は無言の眼差しで歯を食いしばり閂を抜こうとし続ける。
「沢本さん、まさかああいう事ってよくやるの?」
「どうしてそう思うの?」
「何だか手馴れてるから。手だって怪我してないみたいだし。そういう技術ってさ、どこで覚えたの?」
「父さんの話を思い出して真似しただけ」
「え?」
「何でもない」
 彼女は僕から背けるように視線を閂へ戻し、再び格闘を始める。
 今、彼女は確かに父さんと言った。まさか彼女の父親は、こういう洒落や悪戯では済まされないような事を娘に教えるのだろうか。だから彼女は、ガラスを割るなんてとんでもない事が平然と出来るのか?
 どの道、ここまでされては腹を決めるしかない。むしろ、そこまで現場に拘るのなら最後まで彼女の話は聞いてやりたいとすら思う。それに不謹慎なことだが、プールでの事件の話の結末が気にならないと言えば嘘になる。後始末をするのは、それを聞いた後でも遅くはない。
 僕は彼女の側まで向かい閂を離させた。
「離れて。逆側から蹴ってみるから」
 これでもう言い逃れは出来ない。彼女がガラスを割って鍵を拝借し、僕は閂を勝手に開けた。もしもこの事が親や学校に知れたら、二人セットで怒られるのは間違いない。
 今更ながらそんな事を思い、やり切れないフラストレーションやらを込め、力一杯閂を蹴った。