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 彼女はコミュニケーション能力に乏しいから、引っ込み自案で自分の意見も言えず、どんなに嫌な目に遭っても何も言わずじっと耐えているはず。僕はそんなイメージを彼女には持っていた。けれど、今日で彼女に対する見方は完全に変わった。
 確かにコミュニケーション能力は人並に満たない。けれど、行動力は見た目の印象からは想像が付かないほどずば抜けている。そして懸念していた倫理観は予想よりも遥かに低かった。
 これらを総合すると沢本紫という人間は、反社会性の強い危険な人物像が浮かんで来る。しかも彼女自身がそれを否定するどころか、あえて自分を殺人犯の心理と重ねているのだから始末に置けない。
 君子、危うきには近寄らず。その言葉通り、彼女の異常な性質は直ちに教師に伝え自分は距離を取るのが賢い選択だ。
 それは理性が理解している。当初の、そんな彼女を更正させたいという正義感は今でも否定しないが、自力の見積もりの浅さも否めない。僕は深みにはまってしまった。この関係を打ち明ければ、それは自他ともに認めるところだろう。
 けれど、そんな今の自分が後悔とは全く別の念を抱いている事を僕は自覚し始めていた。驚くほど純粋な彼女への興味、好奇心である。生まれて初めて、大人の居ない所でライターに火を灯してみた、そういう類の気持ちである。
 プールの中へ立ち入ってから、僕の視線は先立った彼女の後姿に釘付けになっていた。彼女の考えている事、口から出す言葉、今はもっと知りたいと思う。けれど、それを自ら口に出し認める事には躊躇いがあった。彼女と同じ視線に立つのはともかく、同じ倫理観にまで落ちるのは良しと出来ないからだ。
「ここで起こった事件はいつ頃の事?」
「今から九年前よ」
 それぐらいなら、うっすら覚えているかもしれない。僕は記憶を掘り起こしてみるものの、事件どころかニュース番組の片鱗も思い出せなかった。生まれてすぐの事など覚えている方が少ないし、そもそも僕はニュース番組など見る習慣自体が無い。
「暦では初夏だけど、近年稀なほど猛暑日が続いた事で、プールは連日満員だったそうよ。的屋もまだ規制される前だったから、この辺りはまるでお祭りのように出店が並んで。今よりもずっと町に活気があったのかもしれないわ」
 彼女は飛び込み台に腰掛けると視線をプールの底へ落とした。よくそんな所を平然と見ていられるな、と眉をひそめる僕は焦点を外し彼女を中心にその辺りを漠然と見る。
「ほら、あそこ。中央に排水溝があるでしょ?」
「え? ああ、うん」
「そこが事件のあった場所。その子はあそこで浮いたり沈んだりしていたのを父親が見つけたそうよ」
 よりによって一番腐敗していそうな所など見られるものか。僕は彼女の指さす先など視線を送らず、焦点を外した漠然とした視界で顔だけを向ける。
「死因は溺死。見つかった時はもう心臓が止まっていて、完全に手遅れだったわ」
「随分不自然だね。まず、小学校に入る前のような幼い子供が、どうしてプールの真ん中にいるの? 普通はどちらか親が一緒なんじゃないの」
「その子は水着こそ着てはいたけれど、隣の子供用のプールにいたそうよ。父親が一緒だったけれど、トイレのために少し目を離したら事件が起こっていたの」
「母親は?」
「偶然来ていた友人と談笑中。だから子供の事は父親に任せ切りだったわ」
「父親が目を離した隙に、子供が大人用プールへ迷い込んで落ちたって事か」
「警察も最初そう判断したわ」
 けれど被害者夫婦と日頃折り合いの悪かった夫婦の存在が浮上、警察は事件性があると判断し捜査に乗り出した。
 大人が子供を計画的に殺すなんて、俄かには信じ難い事件である。大人同士でいがみ合うのは分かるが、それが殺人にまで発展するのは普通ではない。しかも当事者ではなく何も事情を知らない子供に飛び火させるなんて、良識よりもむしろ正気を疑いたくなる。そしてその事件現場に僕は今立っている。幽霊という存在を肯定的に捉えていようがいまいが、あまり良い気分ではない。
「ビターレモン、食べる?」
 ふと考え込んでしまっていた僕の目の前で、いつの間にかやって来ていた彼女がそっと小さな箱を差し出す。先週の土曜日に彼女が買っていたあのキャンディの箱だ。甘味の少ないあの味は好みではなかったけれど、何となく断り辛かった僕はありがたい素振りで一つ受け取った。口の中に放り込み舌で舐ってみると、以前と同じ苦味にも似た酸味が早速広がり始めた。舌先が甘味を求めてうごめくものの、要求するそれは一向に見つからず酸味で痺れさせられるばかりだ。だがいつしかそれも、これはこれで良いものかも知れないと思い始め、舌で舐るのは止めて、舌の上で溶けるままに溶かす事にした。
「でも不自然だな。沢山人がいたのに、子供がプールに落ちる所を誰も見ていなかったの?」
「ある的屋の証言では、一人の男が子供を低く抱えていたのを目撃したそうよ」
「つまり、わざわざプールまで連れ込んだって事か。じゃあ、その人が犯人じゃん」
「でも、顔を見ていないの。猛暑の太陽で逆光だったから、見えなかったのよ。大人だけじゃなく子供の方も」
「他にはいないの? 相当人がいたんだから、一人ぐらいいたっておかしくないじゃないか」
「いなかったわ。本当に、ただの一人も」
「まさか。警察が手を抜いたとか?」
「いいえ。文字通り、誰も覚えてないの。ただでさえ慣れない猛暑が続いて、みんな周囲の事なんかほとんど気にも留めなかったのよ。もしかすると視界に入った人がいたかもしれない。でも暑さに耐え涼を求める気持ちの方が強いから、すぐに記憶から無くなってしまった。だから、証言出来る人が一人もいなかったの」
 衆人環視の中、堂々と幼い子供が一人溺死させられ、誰もそれに気が付かないなんて。俄かには信じ難い話である。けれど、本当に周囲に気を配る余裕が無ければ、人間は誰しもが独善的になってもおかしくはない。ただの猛暑でいい大人が集団で周囲が見えなくなるのは突拍子も無いと思うけれど、可能性としては全くのゼロではない。問題は、そんな状況でこういう痛ましい事件が起こったのは果たして偶然なのか故意なのかという事だ。
「折り合いが悪かった夫婦はどうなったの?」
「当日、現場に来ていたから、一応犯人として捜査は進められたわ。けれど、結局嫌疑不十分で放免よ。他の根拠が噂話程度だから当然よね」
「仲が悪かったからって犯人扱いされてもね」
「もっとも、そんな噂話にもすがらなければいけないほど捜査は難航していた訳だから、事件は遂に未解決のまま。捜査は打ち切りどころか一変して事件性無しと判断されてしまったの。体良く、不幸な事故という事にしてしまってね」
 まさか警察も、猛暑の中での捜査に嫌気が差して途中で投げ出してしまったのではないだろうか?
 一瞬そんな予感が頭を過ぎったが、有り得ないとすぐに否定する。さすがに警察までそんな無責任な態度で義務を放棄するはずはない。捜査が打ち切られたのは、単純に事件に関する情報があまりに得られなくて行き詰ったからだ。そうなる原因を作ったのは、それこそ暑さを理由にほとんど協力出来なかった現場に居合わせた人達である。
「凄いと思うの、私」
「何が?」
「もしもこれが計画殺人だったら。普通なら目撃者を警戒する状況なのに、猛暑を利用して逆にアリバイに利用したんだから」
「目の前で子供が殺されても記憶に無い、そんな大人達のモラルを疑うね、僕は」
 相変わらず不謹慎な事を口にする。僕は急に機嫌を損ね、憮然とした表情で視線をプールの外へとそらす。
「河村君」
「考えたくもない」
「どうしたの、急に?」
「子供を殺した犯人の気持ちだろ? どうせろくでもないものに決まってる。想像しただけで気分が悪くなるよ」
「どういう想像したの? 聞かせて」
 分かっていながら訊いているのなら底意地が悪いのだろうし、そうでなければただ純粋に悪趣味な奴だ。僕は語尾を若干苛立たせながら答える。
「こんな状況下で嫌々殺す訳ないだろ。誰かの目に止まるかもしれないってリスクも考えてないし、むしろそれをスリルに置き換えているようにすら思える。テレビでやってるような、殺人が大好きな変態と同じ心理だよ」
「殺人が好きなのは異常なこと?」
「異常だよ。言うまでも無く。それに共感する奴もみんな異常だ」
「河村君って潔癖症なのね」
「誰でも普通そう思うよ。沢本さんは違うの?」
「さあ。良く分からないわ。人を殺した事はないから」
 それなら僕も同じだ。けれど、人を殺す時の心理なんて容易に想像が付く。仮に、気が遠くなるほど憎い相手に対してナイフを向けていたとしても、僕はそれを振り下ろす事を最後まで躊躇うだろう。嫌悪感もさることながら、超えてはならない一線を越えてしまった倫理の喪失感にも悩まされる。当たり前の道徳観念を持つ大多数にとって、殺人とはそういうものなのだ。
「普通の人は嫌々ながら人を殺すのね」
「変な表現だけど、そういうものだよ。後は、ついカッとなって衝動的にしてしまったら、考える暇なんかないんじゃない?」
「そう。人を殺すのが好きになれないのなら、何も考えなかったり考える暇が無い方がいいのね」
「何言ってるんだよ。おかしいよ? そういう発想は、根本的に」
 そもそも人を殺して良しとする発想自体がおかしいのだ。そんなおかしい考えに共感するのは、同類か予備軍に属する人間だけだ。朱に交わり染まってはいけない。踏み越えてはいけない一線を踏み越えた人間だけが共有する思想である。
「ねえ、河村君。被害者の夫婦と、容疑者にされた夫婦。諍いの原因って何だか知ってる?」
「さあ。ゴミ捨てとか騒音とかじゃないの?」
「元々性格が合わなかったのもあるんだけど、決定打になったのは被害者夫婦が言い放った一言そうよ。子供が出来ない容疑者夫婦に言い放った、そういう言葉」
「そういう……言葉?」
「嫌々でなければ、人は人を殺す事に躊躇いがないんでしょ? 私はやっぱりこの夫婦が犯人だったと思うわ」