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「これでよし」
 ガラスの穴をプレハブの中で見つけたガムテープで塞ぐ。初めから窓は補修されていたかのように、濡れた泥を薄く塗っておく事も忘れない。元々厳重に管理されていない所を見るとさほど重要な場所でもなさそうであるため、この程度の工作で十分目は誤魔化せるだろう。そんな一連の作業を沢本さんは無言のままじっと見詰めている。手伝う気は無さそうだが、そもそも僕が何をしているのか趣旨を良く理解していないのかもしれない。
「沢本さんは後先考えて行動してる? ここ、どうするつもりだった?」
「どうにかなると思ってたぐらい。どうせ誰も興味を持たない場所なんだから」
「幾ら何でも、物がいつの間にか壊れていたら誰だって不自然に思うよ。犯人探しも行われるだろうし、真っ先に疑われるのは子供だ」
「本当にそう思う?」
「普通そうだよ。こういう所に入りたがるのは子供ぐらいだもん」
「そうじゃなくて。不自然に思う、という事」
 僕は首を傾げてしまった。何故そんな事を訊ねられるのか理解がすぐに追いつかなかった。物の壊れ方にもよるが、元ある形から変わっていれば疑うのが当たり前の反応だ。一体どこに疑念を挟む余地があるのか僕には理解出来ない。
「昨日までちゃんとあったものが、次の日に突然そうでなくなれば、誰だっておかしいと思うじゃん」
「でも、興味が無い物なら急に無くなっても誰も気が付かないわ」
 彼女の持論だろうか? 僕には理解が出来ない。僕だってこんなプレハブにはさほどの興味も無いが、知らぬ内に窓が割られていれば不自然に思ってしまう。気が付かないという状況そのものが僕には想像出来なかった。きっと、彼女には彼女にしか認知できない世界観があるからこういう事を言うのだろう。
 全ての後始末を終え、どちらからともなく帰路へついた。そういう仕草は以心伝心みたいだと思ったが、実際彼女との距離は遙か遠く自虐としか受け止められない。双方の理解が双方に届いていないのだ。帰るタイミングも、お互い遅くまで帰らない所を先生に見つかると面倒だという点は一致し、その空気を察しただけにしか過ぎない。
「それじゃあ、また明日」
「うん、また明日」
 彼女とは役場から少し離れた交差点の前で別れた。彼女の家の方角は、ここからだと丁度正反対の方向になるらしい。地名を訊いてみたけれどあまり耳慣れない名前で、本人の話では周辺には小さな古いアパートが少しあるくらいの寂れた場所だという。普段接する機会も無い場所だけに探検心のようなものが湧き上がりはしたが、彼女の性格からすれば興味本位で関わられる事は嫌がりそうであるため、それはまた機会があった時に切り出す事にする。
 役場は家とは丁度正反対の方角で、一旦学校の傍を横切らなければいけない。普段よりも帰宅に要する時間は長くなりそうだが、どうせ自宅には誰もいないのだからさほど問題にはならない。
 帰路の最中、僕はずっと彼女の言葉を頭の中で繰り返していた。特に最後の言葉、興味が無ければ気が付かないという部分が妙に引っかかってならないのだ。
 興味が無ければ、無くなっても気が付かない。僕はそんな事は有り得ないと思う。変化を認識する基準に、興味という要素はさほど大きく占められていないからだ。特に露骨な変化があれば、たとえ道端の石だって目が留まるはずだ。変化に気が付かないという状況は、本当に僅かな差異しか無かった場合でしか有り得ない。
 きっと彼女が僕に伝えたい事があるのだとしたら、もっと遠回しで回りくどい表現をしているから僕にはその実感がわかないのだろう。言葉自体には大した意味は無く、質問一つ一つに解へ続く順序立った道筋も無い。ただ問う事を繰り返す行為そのものに意味がある。後は節々から僕が如何にして察せられるかだ。
「おっ」
 そう考え込みながらいつの間にか抜け出ていた歩道を歩いていたその時だった。突然背後から近い場所で車のクラクションが鳴らされ、驚いた僕はその方向を振り向く。
「将太、こっち」
 徐行しながら幅寄せする一台の藍色の車、運転席の窓から顔を出しているのは父親だった。
「随分早いね」
「出張が来週に延期になりそうでな。今週はもしかすると、ずっとのんびり出来るかもしれないんだ」
 もう少し考え事をしながら歩きたかったが、長く根詰めても仕方ない。僕は早速車へ乗り込み父親との帰路へ付いた。
 母親は仕事でまだ帰ってはいないが食事の準備はしてある。しかし父親は晩酌の友が無いからという事で、一旦スーパーへ寄る事になった。父親の買うものは大体決まっていて、基本的に乾き物が二つとチーズ系が一つ、そして焼酎用に搾るレモンを二つだ。ビールや焼酎は買い溜めしているので時々しか買う事は無い。そして僕は決まってサイダーを一本ねだる。
 風呂上りに飲む物も手に入れたこともあって、スーパーを出る頃には先ほどまで考えていた事がどうでも良くなっていた。多少考え込んだ所で変わる事などたかが知れているのだから、明日改めて考える事にしよう。そう楽観視を決め込み、彼女の事は頭の隅へ追いやった帰りの車中、父親は何の気もなしといった軽い口調で、まるで不意打ちのようにそれをほじくり返してきた。
「ところで、さっき一緒に歩いていた女の子は?」
「別に何でもないよ」
 訊ね方に思わせぶりな節がある。下手に言葉を積み重ねても無意味だろうから、僕は簡潔に切り返す。
「母さんには黙っておくから」
「そういう言い方やめてよ。っていうか、分かれたの随分前なんだけど」
「あそこの交差点、お前が曲がった方の道は一車線道路でこの時間帯は一方通行なんだよ。遠回りしたら見失ったんだ。それで、あの子はどこの子だ?」
「さあ。家の場所は知らない。沢本って言うんだけど」
「沢本?」
 すると運転席の父親が一瞬、怪訝な表情を浮かべた。それを僕は見逃さなかった。沢本という苗字に馴染みが無いという懸念ではない。明らかに特定の個人に対する懸念の表情だ。
「何かした?」
「ん? ああ、いや。別に」
 変な反応だ。
 そう首を傾げるものの、父親の方から訊ねなくなったのは幸いで、わざわざこちらからこじらせるような事をする理由も無い。僕は座席を軽く倒し体を思い切り伸ばした。今日はさほど体を動かしてはいないが、プールでの一連の事で過剰に緊張したせいか関節が若干重く鈍い。
 今日は彼女のしでかした事の尻拭いで、ろくに話も覚えてはいない。僅かに残る疲労感の原因もほぼそれのせいで、プールで起こったという事件などいつもと同じ嫌悪感以外に何も頭の中に残っていない。
 ただ、意外にも覚えていない事について僕は残念な気分だった。どうしてこれまではちゃんと覚えられたのに、今回に限って忘れてしまうのか。ガラスを平然と割られたぐらいでおたついた自分を、今となっては叱り飛ばしたいとすら思う。
 僕は明日、もう一度彼女に今日の話を聞かせて貰おうと思った。どうせ嫌悪感をもう一度味わうだけと分かっていたが、七つある事件の中で一つだけ知らない話があるというのは我慢がならないのだ。
 完全な好奇心、野次馬根性である。本来ならそれを眺めるはずの立ち位置だと自分を評していただけに、この心変わりには自分でも強く驚かざるを得ない。
 興味と言えば―――。
 不意にさっきの彼女の話が頭を過ぎる。
 もしも、人が本当に興味の無いもの以外の変化に気がつけないのだとしたら。実際には有り得ないと僕は思う。けれど、それを実証する身近な例も無い。だから、仮の話、事実が彼女の言う通りとするならば。人が一人殺されてもそれが誰の興味も全く無いような人間だったら、いなくなった事に誰も気が付かないんじゃないだろうか? そうほんの少しだけ僕は思った。
 実際そんな事は有り得ないのだけれど、少なくとも彼女はそう考えている。そんな彼女は、殺人犯と自分の心理を重ねる奇妙な行動を取っている。それらが一体何を僕に気づかせようとする行動の現われなのか、自然な答えは一つ思い浮かぶものの、その答えはかつて一笑した下らない仮説である。けれど、どう考えてもそれ以外に自然な答えが浮かんでは来なかった。
 僕はそれでも律儀に、再度思考をクリアにして初めからきちんと順序立てて分析する。
 彼女はコミュニケーション能力に乏しく、行動力は高く、倫理観の低い人間である。
 彼女が自分と殺人犯の心理を重ねようとする行動には何か理由がある。
 彼女がこうして僕に殺人犯の心理を訊ねるにも理由がある。
 彼女が僕に何かを伝えようとしているのか、それは分からない。彼女自身、自分の行動を理論的に説明出来るのかすらも分からない。
 仮に全てを肯定したとする。自分は殺人犯と同じだと言い、過去の事例から手口や構図を語り、それを暗に僕へ伝えようとする。人と無駄な接触を避け、必要に応じて大胆な行動を取り、常人のような躊躇いは持たない。
 そこから最も自然に導き出される答え。それはやはり、どうしてもあの一つにしか辿り着けない。
 彼女は、これから誰かを殺そうとしていて、そんな自分を僕に知って欲しいのだ。
 小学生が人を殺そうと真剣に考えるのと同時に、さも倫理観が崩壊していないとばかりに遠回しに助けを求めるなど、どう考えても状況に無理があるし現実味も無い。考えるだけなら自由だが、実行に移すのは困難で、成功にいたっては限りなく不可能に近い。その程度の事は彼女だって理解しているはずだ。にも関わらず第三者にそれを止めさせようとするのであれば、止めが入らなければ確実に実現出来るという自信の表れにもなる。
 彼女は本当に誰かを殺そうとしているのだろうか? しかもそれは、誰にも興味を抱かれていない人物であると仄めかしている?
 自分の立てた仮説に対する信憑性はともかく、それなら尚更僕は彼女を放っておけないと思う。実行へ移すか移さないか、その倫理観は天と地ほどの差がある。成功するかしないかではない。大事なのは、そもそもそういう手段に訴えたりはしないという当たり前の倫理観、常識的な通念だ。
 特別に高潔な精神が無くとも、やってはいけない事は誰でも理解出来る。だから僕がするべき事は二つ、彼女にそんな馬鹿な真似を思い留まらせる事と、二度とそういう事を考えたりしないよう説得する事だ。