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 今日は絶好の野球日和だと思っていたが、案の定町営球場には大勢の坊主頭の姿が溢れ返っていた。地元の高校生の野球部で、今年はもしかすると甲子園に行けるかも知れないと学校で噂も耳にした事がある。そのためかノックをしている初老にしては大柄な監督は、張り切ってしきりに声を張り上げるし、それに応える部員達も熱心に練習に打ち込むあまり練習着がグラウンドの土と同化しそうなほど汚れていく。
 僕達はあまり目立たないよう、外野席側からバックスクリーン下の隅へ腰を下ろした。同じ高さの場所に並んで座ることに気恥ずかしさもあったが、相変わらず彼女の徹底した無表情さと素っ気ない仕草を見ている限りでは、今以上の気の迷いは起こらないなと自分を冷静にさせてくれる。
「結構練習は激しいね。さすが高校生にもなると球も速い」
「あんなに速いのに、捕る時に痛くならないの?」
「グローブは割と頑丈だからね。ちゃんと手入れをしていれば手のひらの部分も柔らかいままだから、思ったほど衝撃はこないんだよ」
「柔らかい方が痛くならないのね。不思議」
 そんな会話を交わしながら野球部の練習をひとしきり眺めた。見ていてまず気づくのが、選手によって練習着の汚れ方に大きな違いがある事だ。主に上半身の方が汚れている場合と、下半身が汚れている場合の二通りである。それぞれの実力の差もあるのだけれど、練習自体に熱がこもっていない人は下半身ばかり汚れているように見える。多分、いかにもちゃんと練習していると見せるためわざと汚しはするものの、胸より上にまで汚れが広がる事に抵抗があるのだろう。
 高校生と大学生とでは実力や環境にも大きな違いがあるのだが、根本的な部分は同じなのではないかと僕は思う。大なり小なり思いの強さはあるだろうが、目的はチームの勝利である。その勝利を掴むための練習で起こった八年前の事件。それが事故にしてはあまりに不自然だというのはどういう事なのか。一度は否定したが、目の前の野球に打ち込む姿を見ているせいもあってか、到底似つかわしくないその血生臭い部分への下世話な興味に僕は駆られる。
「事件はどういう背景だったの? 被害者と加害者の周辺とか」
 すると彼女は、ランドセルから例のノートを取り出しページをめくった。ページには幾つか付箋紙が張られ、あらかじめピックアップしやすいように編集されている。豆な性格なのだと僕は思った。
「死亡したのは、当時十九歳だった男性。大学には野球の一芸入試、いわゆるスカウトで入学したみたい。野球部ではエースピッチャーで、打率も二割五分台と非凡。この数字って凄いのかしら?」
「かなりだと思うよ。十回打席に立って三回もヒットが打てれば、もうクリーンナップ入りだもん。ああ、三四五番の打者は特にうまい打者で、クリーンナップって呼ばれてるんだ」
 彼女が珍しくノートを出した理由は、野球絡みの事は良く覚えられないからのようだ。苦手な分野を知ったことで、僕は彼女に普段希薄な人間味を何となく感じてしまう。
「一方、加害者となった二十歳の男性。小中高と野球を一貫して続けてきたけれど、あまりパッとした成績は残せてないみたい。野球で強豪の大学に入ったのはいいけれど、やっぱり周囲のレベルに圧倒されてずっと控え選手。ただ、練習は熱心で面倒見もいい事から監督を初め周囲の評判は良かったわ。そんな彼だったから事件性は無し、ただの不幸な事故として決着したようね」
 けれど、幾ら事故とは言っても野球部の関係者は内心穏やかではないだろう。僕は決着という言葉があまりに安易に出てきたので、そんな違和感を覚えた。
 その野球部の総合力はどれほどかは分からないが、戦力的にはさほども貢献していない万年補欠のせいで、投打に優れるエースがいなくなってしまったのだ。生命に貴賎を付ける訳ではないけれど、エースのいなくなった穴は大きく、謝ってどうにかなるような損失ではない。まして、チーム全体のマイナスでもあるのだから、戦力の衰えを嘆くのは監督どころか部員全員のするところである。
「どうして事件当日は朝早くから練習を? 一月って事は、まだ周囲だって真っ暗だろうし、練習試合だって日が昇ってからでしょ?」
「当日の早朝、被害者は朝練に出ると言い自らここへ来たそうよ。加害者も前日に朝練に付き合ってくれるよう頼んだと証言してる。その日の練習試合、出場出来るチャンスがあったらしいの。レギュラーになるためのアピールも出来るから、それでエースでもある被害者からアドバイスを貰おうとしたみたいね」
「でも、真っ暗な早朝からってのも変だな」
「最初それは警察も疑ったけれど、実は加害者は早朝の自主トレが毎日の日課だったそうなの。それも中学の時から一日たりとも休まず続いていたわ。複数人からの証言もあるし、間違いはなさそう」
「練習熱心な人だったんだね。でも、普段は一人でやっていたはずの練習に、たまたまエースにアドバイスをお願いしたら不幸な事故が起きてしまった。一応の決着はそういう事でつけたってことか」
 それだけ練習熱心だったという事は、加害者はよほど野球が好きだったのだろう。けれど、それが活躍の場とは結びつかず、あまつさえこういった不幸を引き起こしてしまおうとは。
 もしもこれが本当に純粋な事故だったとしたら、あまりに運から見放された選手だとしか言いようがない。事故とは言っても人を一人死なせてしまえば、この先野球をする場など失ったに等しいだろう。しかも本人にとっても自責の念に囚われれば、グローブを目にする事すら苦痛になるはず。そして、そんな傷心の人間に対し、周囲はエースが突如不在になってしまった不安から情け容赦のない言葉をぶつけただろう。下種の勘繰りかも知れないが、僕にはそれ以外の想像が出来ない。
「きっと周囲は大変だったでしょうね」
「何が?」
「事故と分かってからのこと。加害者の人だって悪気があった訳じゃないから一方的に責められは出来ないだろうし、元々評判の良い人なら尚更。チームの柱をどうしてくれるんだ、って気持ち、絶対みんな持ってたはずよ。けれど、それを表には出せないから、ただ押し殺すしかなかった」
 彼女も僕と同じ事を想像したらしく、まるで心の内を読まれていたかのように僕が考えていたのと同じ事を口にする。自分では前置きをしながら想像にも配慮を忘れずにしていたのだけれど、こうして同じ内容を他人の口から聞くと配慮も何も全く感じられず嫌悪感ばかりが込み上げてきた。だから、こういう想像はやはり下種なのだろうと、それ以上の想像は止める。
「本人だって大変だよ。それぐらいのこと、自分だって想像するはずだもん。周囲が言葉を控えれば、自分が腫れ物を触るように扱われてるって思って気後れしちゃうし」
「どちらにしても、気まずいという言葉では済まされないほど、関係が歪むわね」
 野球はチームプレイ、味方との密接な連携は必要不可欠である。それが断ち切られてしまうのだから、チーム内での生存は出来なくなってしまう。卓越した能力のある選手であれば、他に模索する道はあったかもしれない。しかし万年補欠のレベルでは、切り捨てることに躊躇はないだろう。せいぜい、体良く自ずからチームを去って貰うための配慮がされるぐらいだ。
 これではどちらも被害者のようなものだ。それ以上悲惨な想像を続けるのはやめて肩の力を抜いたその時だった。彼女はノートのページをめくりながら訊ねてくる。
「そうそう、河村君なら分かると思うんだけど」
「何が?」
「私、気になるところが一つあるの。実は加害者の人、ポジションはピッチャーなの」
「ピッチャー? エースと同じポジションだったんだ。それじゃ尚更無理だったんだね」
「そう。でも、ピッチャーって投げるのが専門でしょ? どうして素振りなんてしていたのかしら」
「ピッチャーではもう芽が出ないだろうから打者に転向しろって言われていたのかも。野球ではたまにある事なんだ。転向して成功した打者だって沢山いるからね」
「でも、果たして転向に納得していたのかしら?」
「どうして?」
「心の底から納得していたのであれば、その日の練習試合は打者として活躍しようという心構えだと思うの」
 確かに、野球のポジションには各々の適正以外にも特別な思い入れがある場合がある。それがモチベーションとなり練習を積み重ねてきたというプロ選手だって大勢いる。考え方はそれぞれだろうが、普通は転向を促された所で思い入れの方が勝つのだから最初は拒むものだ。
「まあ、そうだね。レギュラーじゃなくても代打で起用もあるし」
「けれど打者で活躍するつもりなら、アドバイスはピッチャー以外の人に頼むのが普通じゃないかしら? 打撃も非凡だとしても、打者としてならもっと優れた選手は他に何人もいるわ」
「そう言えば、確かに。ヒットを稼ぎたいのなら一番、犠打で貢献したいなら二番のレギュラーに教わった方が確実だな」
「普段親しくも無いエースですら、わざわざ早朝の練習にまで来てくれるほど人望のある人なら、部で一番上手な打者の人でも来てくれるはずよ。にも関わらずエースピッチャーを、競合するポジションの選手を呼ぶのは、私には不自然に思えてならないの」
「まさか……」
 僕はその先の言葉を言わなかった。頭には浮かんだものの、安易に口にするのはあまりに軽率なことだと思ったからだ。
 まさか嫉妬心に駆られるあまり凶行に及ぶだなんて。
 それは実に軽率で、尚且つ根拠の無い疑いなら中傷とも受け止められかねない考えである。けれど、一番自然な動機にも僕には思えた。それでも僕は、こんな事を考えてはならないとしきりに自分に言い聞かせた。これを肯定する事は、人の死に関わる事を下世話な感情で引っ掻き回す行為を肯定することである。そういう無闇に冒涜する行為は道徳的に控えるべきだ。しかし、何度言い聞かせても考えられずにはいられなかった。加害者は被害者に対してどんな心情を抱き実行に移したのか、何の根拠も無くただただ下種の勘繰りを続けられずにはいられない。それほどの魔性とすら呼べる魅力が、これにはあるのだ。
「幾ら練習熱心でも、達観する事は難しいものなのかしら」
 彼女はまるで僕の想像を読んでいるかのように、そんな意味深な台詞を吐いた。