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 金属バットが奏でる快音は実に清々しい気分にさせてくれる。
 練習模様はノック打ちから試合形式に変わっていた。練習着の色分けは無くスコアボードも無いからどちらがどちらと見分けがつきにくいが、アウトカウントが監督の胸一つになっているようなので、元々攻守の切り替わりは関係ないのだろう。
 来年から部活動を始めなければならないのだけれど、野球部は結構いいんじゃないかと思う。野球が特別好きという程でもないが、この町にはこういう立派な球場があるのだから野球をやっているだけでも恩恵は受けられそうだからだ。とは言っても、僕自身運動神経はさほど優れてはいない。足も速い訳でなく、腕力自慢という訳でもない。体格も一列に並んで丁度真ん中辺りだ。そんな僕に最適のポジションはどこだろうと考えると、急に熱が冷めていく。やはり、どうせやるならレギュラーポジションで黄色い声援を浴びせられるほど活躍したいという俗っぽい功名心が無い訳でもない。いや、むしろそういうのが大半じゃないのかとも思う。
 単なる野球の練習の見学なら随分気が楽だっただろう。練習を眺める僕は今ひとつのめり込めずにいた。いや、本当にのめりこんだら当初の目的からかけ離れてしまうのだけど、とにかく何かに集中出来ないふらふらした状態から離れられない事が非常にもどかしかった。その一方で彼女は例の表情で僕と同じようにじっと練習風景を眺めている。野球のルールを知らない者が一体何が面白くて見ているのか、その不可解さがより不気味だ。
 彼女との間で長い沈黙はいつも気まずく思う。僕はさほども間を開けずに口を開く。
「ねえ、沢本さん。前々から疑問だったんだけど」
「何?」
「何故、自分は殺人犯と同じ心理状態だと思ってるの? 何かしら切っ掛けがあっての事?」
「切っ掛け、ね……。切っ掛け」
「そう、切っ掛け」
「言えないわ」
「どうして?」
「今となっては、さほど重要じゃないから」
 本当に重要じゃないのだろうか。その答えに僕は疑問を持つ。単に言いたくないからはぐらかしているのだろうか。人には言えないような理由、すると怨恨絡みだろうか。しかし、刑事ドラマにあるような殺人にまで発展する人間関係のもつれは小学生にはとても当てはまらないと思う。そこに至るまでの濃密さもなければ、そもそもそういう発想自体が大人のものだからだ。
「沢本さん自身では、今まで挙げたような殺人犯の心理についてどう思うの? やっぱり異常な人間だとは思ってる?」
「殺人者は異端だと思うわ。心理構造もそうだし、社会的に対する姿勢も」
 しれっとした態度で答える彼女の言葉、それが思ったより常識的な返答で僕は驚きを隠せなかった。今まで僕は、彼女は根本的にそういう部分を理解していないから、半ば殺人犯の賛美にも捉えかねない方向へ傾倒していると思っていた。にも関わらず、根っこの部分は僕とさほども異なっていない事に、ならば今までのは何だったんだと疑問すら感じる。
「殺人犯が異端であると理解してるのに、どうして自分と重ねようとするの?」
「私自身が、異端だと思っているから」
「自分は人と考え方が違うから、きっと殺人を犯すに違いない。そういうこと?」
「そうね。概ねそう」
 考え方が違うという事が即殺人犯に繋がるというのはあまりに極端過ぎる。ああいうのは結局、抑圧された感情の爆発か、根本的な倫理観の倒錯で起こるものだ。紅茶かコーヒーかの違いで、良識人と殺人犯に分別できるほど単純な事ではない。彼女のこれは、悪い事への羨望をこじらせただけだ。
「沢本さん、僕はねそういう考え方はやめて欲しいと思ってるんだ。絶対に自分の為にならないよ」
「知ってる。そうじゃなきゃ河村君、こうして付き合ってくれる理由が無いものね」
「自分の考え方がおかしいという事まで気づいているなら、考え直すのはもう一息だよ。何もかも優等生で良い子ちゃんになるのが正しい道だとは言わないけどさ、少なくとも犯罪者の心理状態にわざわざ自分を近づけようとするなんておかしいよ。殺人犯の信奉者って何時の時代もいるらしいけど、ああいうのは病気の一つだし、わざわざ自ら染まる意味は無いと思うよ」
「私は誰も崇拝なんてしていないわ」
「でも、結果的にはそういう構図だよ。自分と重ねたがってるんだから」
「私は自分の心理を覗きたいだけ。自分の心理に比較的近い殺人犯の心理を覗き見る事は、そのまま鏡に映した自分を観察するのと同じよ」
 だから、自分の心理がそういうものだという、そもそもその前提が間違っているんだけれど。それとも、僕には言えないという切っ掛けが自分をそうさせていると確信出来る代物だというのだろうか?
 彼女はきっと誰かを殺そうとしている。それは間違いないと僕は思う。すると殺人犯と自分を重ね見ようとする行為は、自らの殺意を計っているのだろうか? けど、計るにしても理由はある。自分の殺意は実行に移した際に決して揺らがないほど強いものであるという確証が欲しいのか、はたまた単純な殺意そのものの否認か、だ。
 後者なら随分説得はしやすいと思う。それはただの一時的な気の迷いであって、現状踏み留まっているという事は良心の方が依然強いからだ。しかし、残念だが可能性は低いと思う。本当にそうなら、彼女のアプローチの仕方はもっと確実性のある方法、たとえば担任の先生に相談するとかになるはずだからだ。
 前者なら非常に厄介だ。実際に人を殺した人間はこういう思考をしているのだから、それが自分に当てはまるなら自分の抱いている殺意は紛れも無い本物であると、そういう確信を得る。これは純粋に犯行に及ぶ前の下準備と一緒だからだ。
 でも、これにも疑問はある。どうしてそこまで強固な殺意を確認したいのだろうか。
 いざという時に絶対に躊躇いたくないから? 絶対にあいつを殺してやる、でもそれは本当に本気なの?
 彼女が思い悩んでいるのは、つまりはこういう事だ。そして、殺してやりたいと思ってる人間は愛憎のあやふやな者だと、そう示唆しているとも受け取れる。そこであまりに迷いが大きくなって自分の中で処理しきれなくなり、遠回しな手段で打ち明け、出来ることなら止めて貰いたい、そう言葉にならない声で訴えかけた。たまたまそれを受け取った僕は、こうして放課後に周囲の目を盗み殺人現場を巡り歩くという妙な関係を築いてしまったのだ。
 結局の所、彼女の考えている事など全て憶測でしかない。出来るならもっと奥深くまでさらけ出させたいが、それは彼女はきっと拒絶するだろう。恥や外聞をかなぐり捨てるのとほぼ同じ行為だからだ。
 だから僕に出来る事は、口八丁を駆使してでも彼女が悪い方向へ傾倒しないよう努める事だけだ。別段正義感や義侠心を振りかざすつもりはないけれど、クラスメートが道を踏み誤るのを見て見ぬ振りは出来ない。踏み外した人間を糾弾するのは大事かも知れないが、踏み外さないよう尽力する事の方がもっと大事で尊い。少なくともそう僕は思っている。
「私、変なことを言っていると思う?」
「変かどうかは主観だから何とも言えないけど、少なくとも僕は、僕以外の人間に同じ事を言うのはやめるべきだと思う。変な目で見られるよ。偏見は誤解を生むから自分のためにもならないし」
「河村君は私に偏見は無いの?」
「そんな事よりも、今対話している事実の方が大事だと思うよ」
 そう、と彼女はぽつりと答え再び押し黙った。
 だったら何と答えればいいんだ、と僕は彼女の態度に内心口を尖らせた。偏見なんてあるに決まってる。僕は彼女を爪先から天辺までまともな人間とは思っていないし、改善の必要があるからこうして対話をしている。あけすけにそれを口には出来ないから、今もオブラートに包んだのに。
 自分が正しいと思う人間に別な価値観は説いても無駄である。僕は改めて彼女には言葉をもっと選び譲歩しなければならない事を実感する。
 それから二人で練習をひたすら眺め続けた後、何度目かの攻守入れ替えでどちらからともなく立ち上がり家路に着いた。未だ会話は噛み合わない事の方が多いのにこういう所だけは以心伝心だと、僕は自分のこれまでの成果を皮肉る。
 その帰路の途中、不意に彼女が口を開いた。
「さっきの話だけどね、実はちょっと続きがあるの」
「続きって?」
「事件から間も無く、この加害者の人。急にピッチャーとしての素質を開花させ、次の年には野球部のエースになっちゃうの。他にもいた上手な選手を全部押さえてね」
「急に? は、まさかこれまで眠ってた才能が遂に開花したとか」
「そこまでは分からないわ。でもその人のおかげで、野球部は史上初の甲子園出場を果たしたそうよ」
「まるで加害者の人は、自分がエースに取って代わるために起こしたみたいな事件だね」
「結果的にはね。確信があったのかどうかは分からない。けれど、温厚な人でさえも自分の目的のためなら手段を選ばない事があるのかもしれないわ。河村君はどう思う? やっぱり加害者は故意だったと思う?」
「そうかもしれない。世の中には実際にそういう人が結構いるらしいから。でもそれは、倫理的に許されない事だよ。目的と手段ははき違えるべきじゃないからね」
「目的のために手段を選ばないのは犯罪者の思考なのね」
「そうだね。うん、そうさ」
 妙に上擦る返答の声。
 何を自分は慌てているのだろう。僕は唾を飲み込み息を整える。
 慌てた理由はとても単純な事だった。随分無責任な答えをしてしまった。そんな思いが一瞬頭を過ぎったからだ。