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 彼女の異変について、やはり昨日同様に誰も口にはしなかった。しかしそれはあくまで表立ってでは無いという事であり、みんなの視線や声を潜める仕草は彼女の異変に対する興味が並々ならぬ事を雄弁に物語っている。そして、相変わらず彼女について何も触れようとしない先生の余所余所しい態度は、明らかに事情を知っているものだ。
 僕は一日中何が起こったのか気になって仕方なかった。僕だけでなく、友人も、他の付き合いの薄い人達もみんな事情を知りたがってそわそわしている。けれど、誰も本人に訊ねる勇気はなく自分以外を焚きつけるばかりだった。誰かがこっそり先生に訊ねたらしいが明確な答えはなく、あまり騒がぬよう注意を受けたけだという。まさか本人が皆に説明するはずもなく、結局の所、誰も事情を知り得ぬまま一日が終わった。
 彼女が良くも悪くも注目された一日だっただけに、その日僕は一人でそそくさと教室を出て学校近くの路地で彼女がやってくるのを待った。普段も関わりが無く見えるよう配慮しているが、今日は念を入れての事だ。
 あれだけ好奇の目に晒されながらも、普段とは何一つ変わらぬ様子を貫き通した彼女を僕は凄いと思った。遠巻きにひそひそと噂され続け先生も助けてはくれないこの四面楚歌、同じ状況に置かれたなら僕はきっと泣いてしまうだろう。情けなさとか苛立ちとか、そんなフラストレーションが一気に高まるような状況など僕は味わった試しがない。それだけに想像力だけは強く働くのだから、酷な光景ばかりが幾つも脳裏に浮かび、どれも長くは耐えられないだろうと戦慄し、そこへ放り込まれた彼女を考えまた戦慄する。
 一体、彼女に何があったのだろうか。僕は改めてその疑問を浮かべる。
 昨日彼女が休んだ理由は、十中八九あの怪我だ。けれど、不思議な事にその理由は周囲には全く伝えられていない。一番有り得る理由は車との事故だろう。事故ならあれぐらい派手な怪我をしても不思議はない。だが、先生は故意に彼女が休んだ理由を伝えなかった。事故なら事故と言えばそれで済むこと、犯人を除き誰も非難はされない。隠す理由が全く無いのだ。
 そうなると、怪我を負った理由、負わせた相手は、人には言えない事情があるのだろうか? たとえば、兄弟喧嘩が行き過ぎた? いや、それくらいなら先生が口を閉ざす理由にはならない。もっと深刻で、社会的にも問題があり、警察の介入くらいでは収集出来ない理由。それで、他に考えられるのは。
「あっ」
 その時、不意に視界の端に彼女の姿が映り込んだ事に気づき声をあげる。僕はすぐに路地から飛び出し、彼女の後を追った。
「沢本さん、ちょっと」
 僕の足音に気づき、彼女は足を止めゆっくり振り返った。
「河村君、待っててくれたの?」
「ああ、まあ、うん」
 彼女は相変わらず何を考えているのか分からない無表情で僕の顔を見る。しかしその目は片方を眼帯に覆われ、表情もガーゼのせいで尚更分かり難い。心なしか抑揚のない声も普段よりか細くなっているように聞こえる。
 そして僕達はまたいつものように示し合わす事もなく一緒に歩き始めた。彼女は友人達とは違い、互いに考えている事も分からず、意志の疎通もたどたどしく、その上安心して気が置ける相手ではない。けれどどちらからともなく取る動作だけはいつも自然で、時折親友のような関係に錯覚してしまう。
「今日はどこ? こっちの方角?」
「そうよ。あまり遠くは無いわ」
 ただ前方だけを見ながら問う僕に、彼女は歩幅の関係上半歩下がった位置からそう答える。
 僕は彼女の目を見るのが怖かった。今日一日、僕は一度たりとも彼女を気遣う事をしなかったばかりか、こうして放課後の時までもいつも以上に人目を避けるような、露骨に厄介者扱いをしてしまったからである。彼女は僕を非難している。何故私を無視するのかと腹を立てている。そう僕は今の彼女の心境を想像するのだけれど、彼女の振る舞いは普段と何ら変わる所が無かった。
「流原川口っていうバス停、知ってる?」
「バス停? ううん、ちょっと。あまり詳しくないなあ。でも名前からすると、流原川の近くのバス停だよね」
 流原川はこの町の真ん中よりやや北の部分を東西に縫うように流れる川だ。川幅は目測で七十メートル、水量にもよるけれど川底は時折深く窪んでいる所もあるので、川を横切るのは大人でも危ない。ただ都会のように水は汚れていないので、解禁日が来ると鮎を釣りに結構な数の人が集まってくる。
「そう。流原川に架かる流原橋のすぐ傍にあるの」
「そこで何が起こったの?」
「ちょっとした事件よ」
 ちょっとした事件。
 僕は首を傾げた。珍しく彼女が不明瞭な言い回しをしたからだ。普段ならもっと気分の悪くなるような事件のあらましをずけずけと並べ立てるのだが。いや、単にどう説明するかは気分で決めているだけだろう。それよりも、僕自身が早く知りたいとがっついているから、率直に教えてくれない彼女に焦りを募らせているのかもしれない。
 事件など二の次三の次、一番の目的は彼女の更正だ。そう僕は自分に言い聞かせる。
 流原川口までは学校の周辺から歩いても二十分ほどの場所だ。道は二車線の舗装道路だがいささか狭く、軽自動車では大型ダンプとすれ違うのが風に煽られ怖いと母親が言っている。交通量もさほど無く、どちらかと言えば地元の人が回り道程度に使う寂れかけた道路、その途中にある川だ。
 ペンキが剥げすっかり赤茶けた橋を渡った先、そこには一軒の物置のような小さな建物が建っていた。屋根はトタンで出入り口はアルミサッシ、何度か補修は行われているものの、かなり年季の入ったバスの待合室だ。こんなものでも、雪が降った時はバス待ちの年寄りにしてみればありがたいそうだ。
 がたがたと立て付けの悪い引き戸を開け、待合室の中へ入る。直後、独特の埃臭さに僕は眉をひそめた。廃墟とまではいかないがさほど念入りに手入れがされている訳でもなく、長く閉じこもるには向いていない建物である。
「そこ、座って」
 彼女に言われた通り、壁にくっ付いたベンチ代わりの長板の端へ腰を下ろした。引き戸の窓ガラスは、外側が泥の汚れで薄膜がかかったようになっているため外の様子はほとんど分からなかった。もし耳が遠かったりラジオをイヤホンで聞いたりしていて車の音が聞こえなければ、バスが来るのも分からないかもしれない。
「結構汚れてるね」
「ここ、ほとんど使われないの。バス停を誰かが動かしたから」
「少しでも自分の家の近くに? 本当にやる人いるんだね、そういう事」
 彼女は僕のすぐ隣に腰を下ろした。僕はそれを強烈に意識してしまった。球場の時と同じ構図、しかし限定された空間で二人というのが何だか気恥ずかしかった。そんな気持ちを隠しながら、口元を僅かに歪める。
「ここで何が起こったの?」
「今から十八年前の話、それ以上正確な日時は分からないわ」
 そう彼女がいつものように口を開いた直後だった。突然彼女は僕の肩に頭をもたれかけてきた。僕は心臓が一度高鳴り、うっかり声を漏らしてしまいそうになる。それは何とか抑えたけれど、体の震えまではそうもいかなかった。
「ここで変死体が二つ見つかったの」
「え? ここ?」
「そう、ここ。こんな風にして二つ、若い男女の変死体」
「変死、か。まあ医者の前じゃなきゃ、みんな変死だよね」
 僕は動揺を抑える。彼女の話は半分も聞こえていない。
 自分は死体のあった場所に座っている。いや、それよりも今現在置かれた状況に驚き体が硬直し震えていた。彼女にそれが伝わるのが恥ずかしかったが、自分ではどうにもならなかった。
 この状況は一体なんだろうか? そんな疑問が何度も脳裏を往復し、僕は訳も分からないまま成り行きに流された。彼女は僕に寄り添うような姿勢のまま、問う事も無くただ話を続ける。彼女らしくない行動だと、話の最中に僕は思った。彼女は無表情で居る事が常だから、人よりも精神力がずば抜けて強いか感情そのものが希薄なのかどちらかと勝手に想像していた。彼女らしくないとは、そういう意味だ。この仕草、まるで僕を頼るかのようだ。普段の彼女からは到底想像もつかない、あまりに弱々しい行動である。
 だからだろう、今なら答えてくれるかもしれないと、いつしか震えの止まった僕の打算的な部分がそう考え、僕に口を開かせた。
「ねえ、沢本さん。一つ聞いてもいい?」
「答えられるなら」
「その怪我は、どうしたの?」
「この怪我……?」
「そう」
 けれど彼女はそのまま口を閉ざした。でも僕は、逆に自分の予感に確信が持てた。
 それでも言えない相手、やはり、犯人は身内だ。それも、この怪我をさせただけじゃない、彼女が殺意を向けている相手もだ。