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 どれだけ時間が経過したのだろうか。途方も長く感じられるのは、きっと僕の主観である。その証拠に、薄汚れた窓からでも差し込む日の光はさほども傾いてはいない。
 会話を続けるべく、僕はもたれかかる彼女に話しかける。
「ここで死んでいたのは若い男女でいいんだよね?」
「うん、そう」
「どうして死んでいたの? 殺された?」
「正確には分からないの。見つかった時は、とっくにミイラ化していたから」
 まさか。
 あまりに荒唐無稽な話に僕は溜息を漏らした。こんな町中で人が死んでいて、ミイラ化するまで放っておかれる事など到底有り得ない。幾ら田舎町だとは言っても、死体があればすぐに気が付く。ミイラ化するまで一年かかったとして、そんなに長い間放っておかれるなど、どう考えても無理がある。
 今日はネタを用意していなかったのだろうか? そんな邪推も頭に浮かぶ。
「もしかして信じてない?」
「まあ、ね。悪いけどさ、有り得ないよ。こんな町中で、ミイラ化するまで放っておかれるなんて」
「普通ならそうね。でも、実際に起こってしまったの。その一つの理由が、バス停。本来ならここの前にあったのだけど、それを向こうの方へ動かしたせいでバスが止まらず、結果的にこの待合室に人が来なかったの」
 そんなに昔に動かしたのなら、むしろ動かした先の方が正式なバス停扱いになっていそうだ。これが都会ならすぐ修正されるだろうが、田舎ならではの大らかさだ。いや、大らかと言うよりもいい加減さかもしれない。
「もう一つ。実はバスの運転手はここで人が死んでいる事を知っていたのかもしれないの。いえ、きっと確実だと思う。事件から十年後に週刊誌が取材した記事で、本人がそれらしい事をほのめかしているから」
「知っていたのに、どうして放っておいたの?」
「きっと、面倒だったから」
「そんな事で?」
「そう。誰かが気づいてくれるはず、自分は毎日決まった時間に家を出て帰って来る、そのサイクルは定年まで絶対に崩したくない、そんな風に思っていたんでしょうね」
 毎日を平穏無事に過ごしたいという気持ちは分からなくもないが、かと言って死体を放置するというのは行き過ぎだと思う。日本人は面倒事からすぐに目をそらす気質だから、運転手も誰かが見つけて通報するだろうと思っていたに違いない。それが、偶然にも長い間見つけられずにいてしまったのだろう。けど、そうは言ってもこれはかなり異質な例である。死体と分かっていながら無視した事も普通は考えられないし、人通りの少なさで見つからなかったという偶然が重ならなければ起こりえない。事件には違いないが、単純な意味での事件とも異なるような出来事だ。
「死体が見つかったのはどういう経緯なの?」
「警察に通報があったの。それでようやく死体は見つけられたわ」
「結局、運転手以外の人が気づくまで相当かかったんだ」
「けれど、警察に通報したのは実はその運転手だったの。遂に良心の呵責に耐え切れなくなったのか、それ以外に何か理由があったのか、本当のところは分からないわ。ただ警察には、何となく気になって見てみたら、と言ったそうよ」
 最初は面倒がって放っておいたが、結局自分で通報したという事は、やはり良心の呵責に耐えきれなくなったという事だろう。最後まで隠し通すのなら、しらばっくれ続ければ済むのだから。
 けれど、幾ら面倒とは言っても、とても運転手の神経が信じられなかった。死体でも人間の尊厳はある。雪山だとか危険な場所ならともかく、日常の中ならばきちんと通報するべきだ。もし自分が人目に触れ難い死に方をしてしまったら、きっと見つけて欲しいと思うはず。人間としてそういう気持ちは最低限でも汲むべきだ。
 殺人犯に対してなら嫌悪感も抱くだろうが、直接手を下した訳でもない運転手に僕は同じような嫌悪感を覚えた。事なかれ主義もここまでくると社会に対する害悪である。そんな人間が大人だと言い張る事には怒りすら感じてしまう。
「運転手はここの前を通る度に何を思っていたのかしらね。一日に五度通る、死体が並んだこの箱。どうやっても前を通り過ぎるたびに何かしら考えずにはいられないと思うけれど」
「どうせ大したことじゃないよ。何も出来なくてごめんなさいとか、でも自分は悪くないんだとか。責任感の無い人間に限って、都合の悪いときは無関係や被害者を装うんだ」
「河村君はそういう人が嫌いなのね」
「嫌いだよ。何かが起こっているのに見て見ぬ振りをするなんて、犯罪者と一緒だ」
「ならもう一つ、嫌な話をしてもいい?」
 くすりと笑いながら問う彼女。僕は可愛らしいとかありきたりな印象は持たなかった。まるで僕が人の生き死に対してすぐ感情的になる事を揶揄するかのような表情、むしろその笑みには凄惨さすら感じた。僕は何度か瞬きをした後、少しだけ顎を傾け頷いた。
「ここを毎日往復する人は少なくとも三人はいたそうよ。ランニングだったり通勤ルートだったり買い物途中だったり。死体はとても臭うそうだけど、この人達は本当に気づいていなかったのかしら?」
 その問いに僕は答えなかった。どちらにしても、僕が気分を害するには違いない。彼女の眼帯に覆われていない右目は、それを期待しているかのように意地悪く輝いている。状況だけ鑑みれば、わざわざ問うまでもなく答えは明白である。しかし、彼女はそれを敢えて僕に言わせたいのだ。僕が気分を悪くしながらも人間の負の部分を認める言葉を搾り出す、その行為そのもに意味を見出しているのだろう。あの図書室での事もそうだが、彼女は僕が綺麗事ばかり並べるから自分の黒い感情で掻き乱してやりたいと密かに思っているに違いない。勿論、僕は彼女がそういう目的でわざと言わせているのだとは気づいているし、その悪感情をきちんと拭い去るつもりで時間をわざわざ割いているのだが。
 そう気持ちを整理しているものの、やはり気分の悪さはどうしても否めない。僕は感情的になる前に、視線を彼女とは全く逆の方へ向けた。
「それにね、運転手はきっと二人の死体には一番最初に気づいていたと思うの」
「どうしてそう思うの?」
「二人は運転手が運転していたバスに乗っていて、ここで降りたのよ。元々人の乗降の少ない所だし、二人も町外の人間だから、覚えていないはずは無いわ。それにね、バス停が動いたのってその時期と重なるらしいわ」
「つまり……あの二人はどうなったのだろうと思っていたらこの待合室で死体を見つけてしまったから、最初から自分が気づかなくても仕方のないような状況を作るため、運転手は自らバス停の場所を動かした?」
「あくまで噂だし、明確な物証がある訳じゃないけどね。元々利用者なんてほとんどいない停留所だから、そんな事をした所で気づきはしても誰も困らないし、それ以上気に留める事も無かったでしょうね」
 結局のところ、みんな自分の生活を一番最優先するのだろう。日常のリズムを決して壊さぬよう面倒事から身を遠ざけるのは、生まれ持ったどうしようもない性だ。ただ、それが今回はあまりに極端な例にまで作用し発展してしまった。
 誰も悪意は持っていなかったとは思う。けれど、関わらないようにしようという意識が結局悪い結果に繋がってしまった。僕はとても共感は出来そうに無い。幾ら悪意が無いからと言って何でも許される訳ではないし、これは過失ではなく見殺しだ。元々死んでいる人に対して見殺しという表現もおかしいけれど、知っていながら何もしなかったのだから同じこと。そういう卑しい感情など、とても僕は理解し難い。
「この二人はどこから何のために来たの?」
「元々生活が苦しくて、長い間住所も定まらずあちこち渡り歩いていたそうよ。この町に来たのはただの偶然みたい」
「じゃあ二人の死因は?」
「一人は外傷が無いのでとりあえず心臓発作、もう一人はかなり痩せていたからおそらく餓死だそうよ。こんな所で何をしていたのかしら? 変な事件よね、本当に」