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 僕はともかく、彼女は元々雄弁な性格ではないため、帯ヶ森までの小一時間はお互い無言だった。先週の土曜日に遠出した時はもっと気軽に会話が出来ていたと思うけれど、僕の中に彼女へかける言葉は今後気をつけなければならないという警戒心があるせいか、何の話題を持っていこうとしても想像が悪い方向へ向いてしまうので口篭りがちになる。彼女の方から何か気軽に話しかけてくれれば随分と楽なのだが、この顔の怪我を見ればとても愉快な気分になれるはずもないだろうから、気軽になんて注文はかなりの無茶である。
 帯ヶ森は流原川口から続く町道をひたすら登った先の、右脇に入る林道を更に登った先にある。大自然の演出なのか舗装を渋ったのか分からない、微かに轍の残る荒れ果てた道を進んでいくと、途中に敷地内である事を示す錆び付いた看板が立っていた。だが看板の先も後もさほど変わりの無い雑木林で明確な区分けは感じられず、町境の標識と同じような印象を受ける。如何にも計画倒れでしたと言わんばかりのずさんさが窺えた。
 雑木林を抜けた先には急に開けた一帯が広がっていた。所々に伐採後の切り株が飛び出し、一面には明らかに別な場所から運んできた赤土が広がっている。建物と言えば今にも倒れそうなプレハブが二つ、しかも一つは共同トイレのようだ。公園と銘打つからには自然を意識した遊具が幾つか見られるが、表面を樹脂でコーティングした材木をそれらしく組み上げ荒縄を大釘で打ち付けたところで、アスレチックと言っても子供騙しにしか見えない。
 計画の時点でかなり無理があったように思う、この公園。荒れ放題に荒れた殺風景極まりない風景の他、その周囲を鬱蒼と生い茂る木々が取り囲んでいるが致命的である。これはほとんどテレビに出てくるような心霊スポットと大差が無いと言っていいだろう。
 そんな、寂しいばかりか不気味ささえ感じる風景を、差し込んでくる西日の柔らかい光が和やかに際立たせ、僕は歩いてきた疲労感以上の脱力感に見舞われ溜息を付いた。アスレチックだ何だと童心に帰りはしゃぎたい衝動などちっとも沸き起こってこない。むしろ、よくも税金でこんな見事な怪奇スポットを作ったものだと皮肉の意味で感心したくなる。
 最後の事件現場にはある意味ぴったりなのかもしれない。そう思いながら僕は、傍らの彼女に問いかけた。
「ここではどんな事件があったの?」
「事件?」
「そう、事件」
 きっと、このおどろおどろしい雰囲気に違わぬ陰惨なものに違いない。理性では否定するものの急激に膨らみ始める期待感を押し殺しつつ、彼女の解説を待つ。けれど彼女は僕の顔をきょとんとした表情で見つめ小首を傾げた。思わぬ反応に僕は何かおかしな事を言ったかと同じように首を傾げる。そんな僕と視線をしばし重ねた彼女は、おもむろにくすりと含み笑った。
 一体何がおかしいのだろうか?
 戸惑う僕に彼女は、ポケットから小さな箱を取り出し僕へ向けた。
「ビターレモン、食べる?」
「え? ああ、うん……」
 彼女に揺すられ箱の口から薄緑の飴玉が零れ落ちる。僕はまるで貴重な物を押し頂くかのように両手でそれを受け止めると、彼女の動向を注視しながら恐る恐る口の中へ放り込んだ。そんな僕の仕草がさも愉快に映るらしく、彼女は口元に微笑を浮かべながらその一部始終を眺めている。
 どこか、普段とは彼女の様子が違っている。
 今になって僕は無視できないほどの違和感を感じ始めた。こんなに表情の豊かな彼女を見たのは初めてだと思う。と言うより、表情に乏しい彼女がこうも長く普通に笑っている事に僕は驚いていた。当たり前の仕草のはずだが、何の感情表現もしない彼女がするのでは新鮮に映った。
 彼女の違和感に戸惑い始めた僕に、彼女は微笑を口元に湛えたまま一歩踏み寄る。
「ねえ、河村君」
 ずいと更ににじりよる彼女。本当に鼻先ほどの距離まで近づいた彼女の微笑に、僕は思わず半歩退いてしまった。
 笑顔だというのに、この威圧感。僕の思考は更に落ち着きを失い揺れを広げる。まるで別人のようだった。眼帯とガーゼで顔半分が覆われているのに、これほどはっきりと分かる笑顔を無表情なはずの彼女が浮かべている様がとても信じられなかった。
 そして、
「何?」
「実はね、七大事件の事なんだけど。あれ、嘘なの」
「嘘?」
「そう、嘘」
 突然の告白。次の瞬間には一切の思考が止まってしまい、僕はその場に呆然と立ち尽くした。彼女が一体何をしたのか、俄かに理解が追いつかなかった。けれど、僕の思考を止めておきながらも当の彼女はさもおかしそうに片目の笑顔を浮かべている。
「一応、事件は全部本当に起こった事なのよ? 子供はあまり知らないだけで。でも、七大事件なんて仰々しい括りは嘘。私が勝手に作っただけ。それらしくは聞こえるでしょ?」
 初めは口元に僅かに浮かぶだけだった微笑はいつしか満面の笑みに、やがては呵々と周囲に響き渡るまでになった。
 おぼろげだが、彼女へ抱く違和感の正体を僕は掴み掛けてきた。あの印象の強すぎる笑顔は、僕の知る定義での笑顔ではない。いや、そもそも日常にあるそれですらない。あれはもっと病的で妄執から来るもの、即ち狂気だ。
「沢本さん、今それを打ち明けたという事は、もしかして七番目の事件はまだ決めていなかったの?」
「そうよ。まだ欠番。まさか河村君がここまで付き合ってくれるって思ってもいなかったから」
「僕が想像以上にお人良しだったって事だね。それで、どうするの?」
 彼女は色の濃い笑みを浮かべたままじっと僕を見据える。不気味な佇まいだが、言葉に窮しているようにも見える。
 僕の言い放った質問は、自分でも思いやりに欠ける冷たい質問だとすぐに後悔した。これは、精神的に追い詰められ行き場を失った人間に対し、自分の考えや先の展望を言えと強要するようなものだ。答えられなければ漏れなく嘲笑が待ち構えていると、その意図が無くとも相手はそう思い込む。自分はもう何も進んで干渉はしない。絶縁の宣告にも近い、相手を追い詰めるだけの行為だ。
 だが、そんな僕の後悔もまるで無意味なように、彼女は平素を取り戻すどころか先ほどにも増して高々と笑い、右目が僕を射抜くように見る。
「どうしてここに河村君を連れて来たのか、分かる?」
「分からないに決まってるよ。途中までは何か七番目の事件になりそうなものを模索していたとか?」
「違うわ。河村君は優しいから、きっと想像も出来ないわよ」
 優しい事と想像が及ばない事は、一体どう関係するのか。棒のように立ち尽くす僕の前で彼女は、おもむろに背負っていたランドセルを地面に置き中へ手を伸ばした。
「考えてみたんだけど、やっぱり七大事件は七つあるべきだと思うの」
「他にも事件はあるんでしょ? なら仕切り直せばいいじゃん。僕は最後まで付き合うよ。創作でも、中途半端じゃ気になって仕方ないから」
「でもね、それよりも、もっと良い方法があるわ」
 そう言った彼女が立ち上がりながら取り出したのは、細長い形状をした白いタオルの包みだった。丁度リコーダーぐらいだろうか。持ち歩くにはいささか長いように思う。それを彼女は右手に持ち、意味深な目つきでそっとタオルの上から撫でる。
「今まで話してきた事件はね、全て真相が明らかになった訳じゃないの。だから、ちょっと掘り下げれば不可解な事が幾つも飛び出してくる」
「それを僕に話して、どう感じるか聞きたかったんでしょ? この人間は頭がおかしいだとか、倫理観の欠片も無いとか。罵り以外の言葉は無かったけど」
「そうね、概ねそんなところ。でも、もう私には必要ないの。結論は出ちゃったから」
「結論って、何が? 沢本さん、やっぱりまさか」
 彼女は低い声のトーンには不似合いなほどの笑みを浮かべ、ゆっくりタオルの包みを解いていく。僕はその仕草に自ずと釘付けとなっていた。タオルの下から出て来るそれが何なのかも分からず、頭の中を空っぽにしてただただじっと姿が露になるのを待ち続ける。それはまるで金縛りにあったかのようだった。
「河村君は私の事をどう思う? 恥ずかしい姿を見られたから、殺してでも口止めしたい?」
「いつの話だよ。それに、僕はそんな事を考えた事もない」
「そうよね。河村君は優しいもの。きっと両親も優しいのね」
「沢本さん、一体何が言いたいの?」
「私達の接点って、同じクラス以外に何かある? 私達の間ならともかく、周囲は何も思い当たらないでしょうね」
 彼女の手から白いタオルが滑り落ちる。直後、その下から飛び出した橙色の光が僕の目を一瞬擦った。その光は丁度僕の背中側から射している西日だった。何か輝くものなのかと僕は目を細めそれを見る。
「そんな私達がここで死んでいたら。一体どんな風に取り上げられると思う?」
 そう笑いながら問いかける彼女の右手、白いタオルの包みの下から現れたのは、一本の包丁だった。