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 玄関から土足のまま中へ進んでいく。誰も住んでいない部屋に家財は一切無く、どこからか入り込んだ砂埃がカーペットのように堆く積もっている。キッチンシンクも乾き切って黄土色の汚れがへばりついている。通路には生活ゴミがあったから室内も高校生の溜まり場などになって散らかっているのかと思っていたが、そういう意味では割と綺麗な状況だ。ここが事件現場と知れば度胸試し以外で近づく気にはなれないだろう。来てはみたものの、少しだけ騒いで帰って行ったのか。
 居間らしいおよそ六畳ほどの部屋は、照明は残ってはいるもののスイッチを押しても通電していないため点灯はしなかった。何となく部屋の薄暗さが気になって仕方なかった僕は、閉められていた雨戸を開け外の空気を入れる。寂れ具合は外から見るより意外と大したものではなかったが、やはり部屋の作りにはどことなく古臭さがにじみ出ている。ここが建てられて相当経過しているのだろう。
「それで、どんな事件だったの?」
「今から十四年も前の話。ここに住んでいたのは一組の若い夫婦と幼い男の子の三人。核家族なんて言われてる構成ね」
 僕が生まれる前の話だ。そう時期を計算しながら、数字以上に昔に思える時代を部屋の構造を頼りに想像する。
「夫は例の工場に勤めていたの。けど、ある日不慮の事故で急死、過失割合は九対一で相手方の重過失という事もあり、生命保険も含めて保証金は十分に支払われたわ。男の子が成人するまでは何とか暮らしていけるほどお金はあった。けど、そんな中で事件が起きたの」
「まさか強盗?」
「ううん、無理心中。奥さんは一人の子育てに疲れ育児ノイローゼ気味だったの。それで心中を図ったんだけど自分は失敗し、一人生き残った。奥さんはその後に殺人罪で逮捕されたけれど、判決では心神耗弱が認められ執行猶予がついたわ。それから先は分からない」
 想像していた殺人事件とは全く違う。罪状という意味では確かに殺人には違いないが、僕はもっと本来の意味で想像していただけに肩透かしを食らった気分である。けれど、殺人に善し悪しなど無いが、想像していたよりもずっと後味の悪い嫌な事件だと僕は思った。サスペンスのような緊張感を誘う展開ではなく、不幸に不幸が重なった末に行き着いた先のような事件である。単純には考えられないなと息をつく。
「丁度そこよ」
「何が?」
「その窓。奥さんはそこから子供を落とし、自分もそれに続いたの」
 そう言われ、思わず眼下を覗く。途端に吐き気にも似た猛烈に嫌な気分に襲われた。その瞬間、奥さんはどのようにし、どんな心境で、どんな顔をしながら決行したのか、想像してしまったせいだ。
「どう、河村君? 奥さんはどんな気持ちだと思う?」
 そして、彼女は図書室で僕に投げかけてきたあの質問をもう一度繰り出してくる。
 僕は答えに詰まった。それは既に頭の中で想像してしまっていたが、あまりに刺激が強すぎて受け止めきれず捨て去ってしまい、再度想像するにも嫌悪感から躊躇してしまうからだ。
 普通なら誰にでも分かり切っているような事を問われている、それもかなり不謹慎な事で。わざわざ言葉にしなければ分からないはずはないと僕には思えてならなかった。けれど、彼女はそれが出来なくて、こうしてわざわざ回りくどい事をしているのだろう。その上、殺人犯の心理と自分との共通部分を証明しようというだけに、なかなか根が深い。僕は揺らぎそうになる初心に活を入れ平静さを装う。
「言うまでもないよ。好き好んでこんな事をするはずがないじゃないか」
「親は無条件に子を愛するもの?」
「当然だよ」
「そう」
 何がそうだよ。
 嫌悪感を押し殺しての答えに対し、あまりに素っ気ない彼女の返答。本当に真面目に話を聞いているのかと疑いたくなる。そんな僕の方を他所に、彼女は明後日を向きながら独り言のように言葉を続ける。
「私はね、そういうのって固定観念だと思うの」
「何故?」
「事実、大昔から親殺し子殺しなんて何度も起こってるから」
「全く無い訳は無いよ。人間はみんな違うんだから。考え方だってそれぞれだよ。環境や常識だって時代によって変わるんだし、一概にどうかなんて決められないよ」
「じゃあ、する人としない人の違いは何なのかな? 生まれ持った資質? それとも環境?」
「両方だとは思うけど、結局は巡り合わせだと思うよ。それに、この事件とは関係の無い話じゃないかな。これは心中であって、殺人じゃあないからね」
「逆に言えば、何かしら理由があれば禁忌もそうで無くなる事にならない? 言い方の違いだけで、結局行為は同じだもの」
「心中というのはあくまで周囲の解釈ってこと? 沢本さんはどうしても悪い方へ考えようとするんだね」
「河村君は優しいから、そう思えるだけ」
 僕は優しいのだろうか? これまで誰からもそう評された事が無いだけに、言葉通り受け取って良い物か首を傾げる。
「そろそろ帰りましょう。日が暮れそうだから」
「そうだね。夜に歩いている所を大人に見つかったら面倒だ」
 はっきりとした結論も無く有耶無耶なまま。けれど彼女が帰宅を促した事に僕も従った。正直ホッとしていた。彼女の疑問に対して真っ向から論じる事が、時折面倒に思えるからだ。僕は極当たり前の道徳観を答えているだけなのに、彼女にはそれがうまく伝わっていない、そんな感触がある。きちんと理解出来るように説くべきなんだけど、面倒と思うのもそうだが、そもそもどのように言い包めればいいのか何も計画を立てていない。無計画のまま下手な事を言って後々面倒を起こすよりは、今日得られた事から彼女にどう論ずればいいのか一晩考えた方が効率も良い。
 団地を出て帰路に着く。日も大分傾き、道路は二人の影が細長く伸びている。このペースなら家に着く頃には完全に日も落ちてしまうだろうが、それでも僕にとっては別段足を速める理由にならない。むしろ気になるのは彼女の方だ。
「遅くなったなあ。少し急ぐ?」
「ううん。河村君こそ大丈夫なの? こんなに遅く帰って」
「ああ、うちは共働きで、しかも帰りが遅いからね」
「そうなんだ」
「沢本さんのとこは?」
「私? 色々よ」
 今、はぐらかされた。僕は反射的に二の句を飲み込む。
 何か言えない事情があるのだろうか。授業参観の時にもっと注意して見ていれば良かった。今後もう少し打ち解けられれば聞き出せる機会もあるだろう。はぐらかされたのならはぐらかされたままに、それ以上の追求は止めておこう。
「ねえ、明日は土曜日だけど」
「うん」
「次はどこへ行くの?」
「え? あ、うん……そうね。考えとく」
 僕がもう今日でこりごりだと思っていたのか、僕の申し出は随分意外だったらしい。けれど彼女は少しだけ微笑んだ。感情の読める表情に乏しいだけに、僕の目には妙に新鮮に映った。
 とっつき難いと思っていたけれど、そんな事は無い、ただおとなし過ぎるだけの人だったんだ。新しい発見に僕も彼女に釣られ少し微笑んでみせる。けれど彼女は、僕の方ではなく視線を影の伸びる足元へと落としていて、そんな僕の様子には気づいていなかった。
「どうかした?」
「私は一つ疑問なの。普通、心中だったら二人一緒に飛び降りるんじゃない?」
「え?」
 僕の疑問符にも構わず、彼女は伏目がちに呟いた。
「もしかすると、奥さんにとってその子供は既にお荷物でしかなかったのかもね」