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 僕の家は学校から歩いて三十分ほどの距離にあるテラスハウスである。この町では珍しいタイプの物件で、今から三年前にここへ越してきた。以前住んでいたアパートとは違って専用の車庫が隣接し風呂もシャワーがついて間取りも広く、その上に自分の部屋もあり、真新しい現代風の家に住んでいることに僕は少なからず優越感があった。同級生の大半は一戸建てで家は当然遙かに広いのだけれど、新しさやデザイン性では僕の家の方がずっと上だと思う。だから自分の家に友達を呼ぶのは好きなのだけれど、今ひとつ機会が噛み合う事が無くまだ二度しか実現した事は無い。
 家に到着したのは日が暮れかけた頃だった。太陽はまだ傾きかけで、真っ赤な夕日が道路を照らしている。時間的にもさほど遅くはなく、もう少しゆっくりすれば良かったかと少しだけ損をした気分になった。
「あれ?」
 自宅が見えてきた頃、僕は小さく声を上げた。誰もいないと思っていた自宅の明かりが灯っていたからである。僕の両親は共に勤めていて、普段の帰りも遅い事が多い。僕が帰宅する時間も周囲に比べれば遅い方だが、両親の帰宅時間に比べればずっと早い。日が暮れる前に帰宅し誰かが家で待ってる状況など随分と久しぶりである。
「ただいまー」
 普段は無言で入る玄関に、今日はここぞとばかりに声を上げて入る。家の中には香ばしい香りが漂っていて、すぐに僕の鼻腔をくすぐってきた。これは母親が得意のクリームシチューだ。
「お帰りなさい。遅かったわね、友達と遊んで来たの?」
 キッチンの方からぱたぱたとスリッパを鳴らしてやってきたのはエプロン姿の母親だった。濡れた手をエプロンで拭きながら来た所を見ると、夕食の支度をしている最中だったようである。
「そう。今日は仕事早かったの?」
「聞いてなかった? 今日は元々早く帰る予定だったのよ。お父さんも帰ってきてるわ」
 母親だけでなく父親まで帰って来ているとは珍しい。早速リビングに行くと、父親はテレビを見ながらスウェット姿でビールを飲んでいた。風呂上りらしく、首にはタオルを捲いている。テーブルの上には氷やらが入っているらしい若干湿ったビニール袋が置かれているのを見る辺り、今夜は本格的に飲む模様だ。
「ただいま。父さんも早かったんだね」
「おお、お帰り。今日は仕事が早めに一段落したからな。まあ、来週からはまた忙しくなるんだが」
「ふうん、相変わらずだね」
「それより、早くカバンを置いて風呂に入って来い。お前の好きなこれ、買って来たぞ」
 そう言って父親はビニール袋の中から何かを取り出して見せる。それはサイダーの缶、それも一番大きいサイズのものだった。うちでは母親がそういったものをあまり飲ませたがらないので、父親が買って来た時しか飲む事が出来ない。だから普段なら喜ぶ所なのだけれど、今日は昼にもラムネを飲んだのだから、炭酸は少々食傷気味だ。気は進まないが、せっかく買って来てくれたのも無下に出来ず、外でこういうものを勝手に飲んではいけないという母親との約束も守っている建前があるので、とりあえずそれらしい喜びの顔を作ってみせる。
 カバンを自室のベッドへ放り投げ風呂へ入る。体を洗い、長く歩いて疲れに凝り固まった足を湯船でゆっくり揉み解すと、今度はやけに激しい空腹感を覚えてきた。先程の香ばしいシチューの香りを思い出し、僕はあまり長湯もせずにさっさと上がってリビングへと戻る。リビングでは父親はビールを止め焼酎を飲んでいた。時間を考えると、今日は普段よりもペースが速い。
「母さん、御飯まだ?」
 リビングからキッチンに向かって問いかける。母親の足音は未だ忙しなく動いているままだ。
「もうすぐよ。それより将太、お昼はどうしたの?」
「適当にパン買って食べたよ。だからお腹空いた」
 夕食が出来るまではもう少し時間が掛かりそうだ。
 僕は父親の横へ座ると、テーブルに広げられていたチーズ鱈を取って食べる。それから父親の氷を少し貰いグラスに注いだ冷たいサイダーをひとしきり飲み、またチーズ鱈を取って空腹を紛らわせる。スルメとかあたりめとか、名前だけは知っているがほとんど見分けのつかない乾物もあったが、これらはあまり好きではないので目もくれない。
「今日は友達と遊んできたのか?」
「そう。クラスの何人かと」
「野球でもしてきたか?」
「ううん、サッカー。野球は道具貸してくれないんだよね。金属バットは危ないってさ。持ち出そうと思えば持ち出せるけど、上級生がうるさいんだよなあ」
 いきなり午後の事を訊ねられ、咄嗟に僕は嘘をついてしまった。微妙な表情の変化を知られまいと、僕はすぐサイダーをあおり誤魔化す。
 父親に彼女の事は言えなかった。いや、母親にも絶対に言えない。知ればきっとそういう人間とは距離を置くように言われるだろうと思うからだ。親の監視の目というものは重い枷で、今後彼女との付き合いにとって邪魔なものになりかねない。
「バットくらい、誰か持ってるもんじゃないのか? 父さん、昔はいつも誰かかしら持ってたから、それと無く使ってたぞ」
「まあ、そうだね」
「ん、どうかしたか? 元気が無いんじゃないか?」
「え? そんな事無いよ。ちょっと疲れただけ。散々走り回ったし。PKでバーに嫌われたのも少しこたえてるけど」
「そうか。じゃあ今日はちゃんと食べて早めに寝ろ」
「でも、映画だけ見させて。今夜は先週の続編なんだ」
 何とか取り繕えた。そう僕は安堵し、再びチーズ鱈を取ってかじった。
 集積場からどうやって帰ってきたのか、僕はほとんど覚えていなかった。ただ、言葉はほとんど交わさず押し黙ったままひたすら歩く居心地の悪い時間が延々と続いた印象だけはある。
 昨日もそうだが、彼女の話は歪で異様だが、どこか頭の隅に引っかかる妙な鮮烈さがある。これまでそういった陰惨な話とは無関係でいたから、尚更そう思えるのかも知れない。だが、果たしてこれらを僕は総括した上で自分の主張が述べられるのか、一抹の不安が過ぎりつつある。僕に彼女の思想を理解するのは荷が重そうな気配がするのだ。妄執を理路整然と論破し取り去る事の困難さを少々甘く見ていた。
「実はさ、今。友達に相談されてる事があって」
「相談? どんな?」
「内容はちょっと言えない。約束もあるし。ただ、よく分からなくなって」
 相談という僕の立ち位置は嘘だが、困難が見え隠れしている状況なのは事実だ。約束と言えば父親もさほど立ち入って聞こうとはしないだろう。そんな腹積もりを隠しながら氷を一欠け口に入れ噛む。苛立ちの演出だ。
「その人の言っている事が良く分からないんだ。相談しているのに、全然関係の無い話ばかりで。何を考えているのか分からない。意図が見えないのもそうだけど、わざと見えないようにしてるんじゃないかって思えて。まずはそういう行動から止めさせたいんだけど、全然変わらなくて。こういう時はどうすればいいんだろう」
「無茶苦茶な事ばかり言うのか? 嘘をついたりしてからかったり」
「嘘じゃないと思う。ただ脈絡の無い事を言ったり、こっちが返答に困りそうな質問をわざとらしくして、じっと顔を見たり」
 そこで父親は小さく唸り、ひとしきり思考を巡らせる。僕には何を考えているのかおおよその見当はついた。父親は僕が苛められっ子に苛められないための相談を持ちかけられていると想像しているだろう。そこで僕が苛められないために色々と指摘をするものの、中々相手と改善に向けての折り合いがつかず悩んでいる。そういった所だ。
「嘘はついていないが、何を伝えようとしているのか良く分からないのか?」
「うん? うん……伝えるつもりがあるのかどうか、良くは分からない。ただ言いたい事を取り留めなく並べているだけなのかも」
「そうか」
 父親は空になったグラスに氷を鷲掴みで入れ焼酎を注ぐ。つんと鼻にくるその香気に、僕は思わず顔をしかめた。
 また考え込む父親の傍ら、僕もまた一つ考えていた。今、父親の口から出た言葉が妙に引っかかった。彼女は僕に意見を求めこそするものの、後は何を考えているのか分からない無表情のままだ。そんな彼女が僕に何を伝えようとしているというのか。多分それは勘違いだと思う。全く正確に彼女の事を父親へ話した訳ではないのだ、何かしらの思い違いは生じてしかるべきである。
「良くは分からないが、父さんはその子が将太に何か訴えようとしてるんじゃないかと思うな」
「何かを訴える?」
「自分の事を知って欲しいんだよ。ただ、どうやって伝えればいいのか分からなくて、結果的に脈絡の無い言葉ばかりが並んでしまった」
「伝える手段を知らないってこと?」
「そう。その子、どういう子だ? クラスでもあまり目立たなかったり、あまり人と接しない感じの子じゃないか?」
「うん、確かに」
「だからだよ。コミュニケーションを取る方法が良く分からないんだ」
 自分を殺人犯の心理と重ねようとする彼女が、僕に何を訴えるというのだろうか。自ら相談したばかりか正確な情報も出さずにおきながら、父親には申し訳ないが思わず笑いをこぼしそうになった。見当違いも見当違いである。人と距離を置くタイプに違いはないが、今も積極的に誰かとコミュニケーションを取ろうとしている訳ではないのだから。
 仮に的を射ていたとして。
 殺人犯の心理と重ね誇示する理由。まさか彼女は、誰かを殺そうとして、それを僕に止めて欲しいのだろうか? それを僕に分かって欲しいと?
 今度は自分が馬鹿馬鹿しくなり考える事をやめた。これではまるで僕が彼女と同じレベルの思考に陥ってしまったようなものだ。そんな事をは有り得ないし、ある筈も無い。幾らくどいと言われても、有り得ない事は何度重ねても有り得ないのだ。その事実だけは全く揺らがないし、例え僕が何に宗旨替えしたとしても決して揺らいだりしない。