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 人から刃物を向けられるなんて、テレビでしか有り得ない状況だと僕は思っていた。勿論、可能性という意味では日常でも十分有り得る事だし、一生に一回ぐらいは不幸にも遭遇する事があるかもしれない。しかし、それがまさかこんなにも早く、その上クラスメートからされるとは思いも寄らなかった。ただただ驚きの一言に尽き、僕は足が竦みその場から動けなくなってしまった。
「……沢本さん? 何の冗談、かな?」
「冗談じゃないわ。今言った通り。ここで二人で死んでみるの。そうすればきっと、不可解な事件だとみんなが首を傾げるはずだわ」
「死んでみるって、試供品みたいに言わないでよ。とにかく、こういう事は良くないよ」
「良くないのは河村君だけでしょ? 私は一向に構わないんだから」
 言っている事が支離滅裂である。勿論、論理性などさほど期待はしていなかったのだから想定通りの返答に違いないが、まともに物事を考えられなくなっている人間から刃物を向けられている状況がこれで確定的となった事にもなる。
 一体、何故彼女は僕を殺さなければならないのか? しかも、自分まで死ぬと言っている。彼女が殺したいのは身内の誰かのはず。今ここで心中とも取られかねない凶行に及べば、それが果たせなくなるのは明白だ。それとも、既に目的は達成してしまっているから、思い残す事は無い? だが、果たして幾ら憎いとは言っても身内を殺した後に平然と学校へ来れるはずがない。いや、もはや彼女はそんな常識には捉われないほど達観してしまっている?
 僕はこの状況を少しでも理解しようと必死で考えを巡らせた。状況の理解こそが僕を救う手掛かりになるはず。けれど、そんな僅かな希望も包丁が反射する西日にはかなわなかった。彼女が示す包丁の輝きには、どうにか知略を巡らせこの危機を脱しようという功名心はあっさりと崩れ去る。
「七大事件を切り良くするためだけに、こんな事をしようとしてるの?」
「そうよ、ただそれだけ」
「人を殺すのは悪い事だ。まさかそんなの分かりませんって言わないよね? 頭のおかしい殺人鬼の振りにしては唐突過ぎるよ。人の気を引くのなら突飛な行動じゃなく明瞭な言葉を使うべきだ」
「河村君の話、私には難しいわ。私はただやりたいからそうするだけ。良いとか悪いとか、もう、どうでもいいの」
「どうでも良くないよ。刑務所に入りたいの? 死刑になるかもしれないんだよ?」
「だから私も死ぬのよ。どっちの心配もしなくて済む」
 話が通じない。理屈も無い。溜息よりも先に、奥歯を苛立ちながら噛み締める。
 彼女は足を一歩前へ踏み進める。その緩い仕草は、まるで僕にこの距離の持つ意味を意識させるかのように思えた。彼女は僕をただ殺そうというのではなく、一しきり翻弄してからのつもりなのだろうか。
 そこでようやく僕は、本当に足を竦ませているのは驚きではなく恐怖であると理解した。恐怖を恐怖と自覚した途端、苛立ちで噛みしめていたはずの奥歯ががちがちと細やかに鳴り始めた。自分が置かれているのは本当に危険な状況なんだと、受け入れるまでに何度も繰り返し呼吸が必要だった。
「待って! 全然分からないよ! 一体何がしたかったんだよ!? あちこち練り歩いて、色んな事件の背景とか話してくれたじゃないか! それが今やってる事に必要だった訳じゃないんだろ!? だったら、何がしたかったのか説明してよ!」
「何もしたくないわ。何も。もう、どうでもいいの。私、決めたから」
「決めた? 何が?」
 彼女は答えず右手を振り上げる。振り上げるのは振り下ろすため、振り下ろすのは切りつけるためだ。決めたのは、それを僕へ振り下ろす決心なのか、僕は訊けなかった。
 彼女の塞がれていない方の目がじっと僕を見据える。迷宮に閉じ込められたのはサイクロプスか牛人だったか。混乱するあまり、そんな下らない思考へ逃避してしまう。理性を完全に失えば、その時こそ訳も分からない内に殺されてしまう。僕は慌てて崩れそうになる自分を立て直す。
 これほど大きな刃物を向けられるのは凄まじい恐怖だった。まさか本当に息が苦しくなるほどの恐怖があるなんて。それなら今まで経験した恐怖など恐怖の内に入らない。単なる漠然とした不安感のようなものだ。無論、僕にはこんな濃密な恐怖に耐えられるほどの耐性は無い。恐怖が喉を締め上げ、それでも無理に声を張り上げようとすれば情けない掠れ声が威勢良く飛び出すだけだった。
「ねえ、河村君。今、どんな気分? 私の事、今度こそ殺したい?」
「馬ッ鹿じゃないの!? そんなことあるか! 怖いよ! 怖いに決まってる! 僕は死にたくないからね!」
「私の事、憎いとか思う?」
「それ以前に、何考えてるか分からないよ! どうしてこんな結論になっちゃったんだ! 殺すとか殺さないとか、何に必要なんだ!」
「理由を言ったら納得する?」
「納得? 僕にはこんな事をされる謂れが無い! 僕が知らないだけで、そっちが僕に何か腹の立つ事をされたんだったら、それを先に言えばいいだろ!」
「言って通じなかったら?」
「僕が話の分からない奴だったらって? ならもうこれっきりだ! 話の分からない奴と付き合う必要なんてあるか!」
 だが、今目の前にいるのが正に話の分からない奴だ。付き合うべきではないというのは、この危険な状況に置かれた僕への遅過ぎる忠告である。
 まさか本当にこのまま殺されてしまうのだろうか? 新聞に取り上げられ、テレビで流され、野次馬がこの田舎にどっと押し寄せる。それ以上に両親はどう思うのか、とても想像も出来なかった。
 彼女の足が遂に僕の爪先のすぐ手前まで詰め寄る。僕は唇を震わせながら、何も出来ずに彼女を真っ向から見据えていた。声も張り上げようにも喉が詰まり呼吸も満足に出来ない。辛うじて出来たのは、目をそこから逸らさない事だけだ。
 いよいよ自分の死の想像がリアルになり始める。覚悟を決めなければいけないのか、そう絶望したその時だった。
 彼女は振り上げた右手に力を込め、僕は切りつけられると思い全身を強ばらせる。だが彼女の右腕が振り下ろされるのは、恐ろしくゆっくりだった。
 包丁は西日を受けながらふらふらと上から下へ宙をなぞり、途中で刃の向きがへたれ込むと包丁の腹が僕の肩先へぶつかる。その姿勢のまま、彼女は動きを止めた。
「沢本さん……?」
 まだ頭が混乱して状況が分からなかったが、とにかくうつむいたままの彼女にそう呼びかける。彼女は顔を上げず僕と目を合わせることを拒んだまま、ゆっくり右手を引いた。腕はだらりと垂れ下がり、刃先が赤土を指す。突然のトーンダウン、それはまるで糸の切れた人形のような姿だった。