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 一体何がどうなっているのか。
 恐怖と困惑が同居する僕は、思考を巡らすにしても何から手を着ければいいのか分からなかった。ただただ呆然と直立姿勢のまま、両腕をだらりと下げうつむいた動かない彼女の姿を見ていた。
 殺すだとか死ぬだとか言い出すのは元より、こんなものまで持って学校へ来ていたなんて、異常にも程がある。抜き打ちの持ち物検査なんてあったら、一体どう言い訳するつもりだったのだろうか。
 呼吸を徐々に整え気持ちを落ち着けながら改めて彼女を見やる。彼女は依然糸の切れた人形のように動かなかった。何かに落ち込んでいるようにも見える。だがその右手は、しっかりと包丁の柄を握り締めている。それの持つ圧倒的な違和感が、彼女が平常から大きく外れた所に居る事を表した。
 物騒な事を並べ殺人犯の真似事をしながら、いきなりのトーンダウン。ふと僕は、これは元々予定されていたものだと思い始めた。そんな狂言をする目的こそ分からないものの、思い返せば彼女は演技中に図書室の時と同じ質問を僕にした。あの時は適当にへらへら答えたように見えたかも知れない。だから今度は、本気の返答を聞き出そうとしてこんな行動に及んだ。そう考えれば辻褄は合わなくもない。だがその割に、得られた僕の返答には大した価値が感じられない。恐怖のあまりに吐き出したとは言え、あんなものは一般論である。誰だって同じような事を言うに決まってる。それよりも、もしも僕が足がすくまずに大急ぎで逃げ出したりしたらどうするつもりだったのか、その場合の事も知りたい。
 うつむいたままの彼女には声をかけ難い。未だ彼女への警戒心がくすぶっている事もあり、どうするべきかと僕はおろおろしながら立ち尽くしていた。そんな状況から間もなく、彼女はうつむいた姿勢のままいきなり口を開いた。
「私ね、河村君に優しくされて嬉しかったの」
「は?」
「まともに話を聞いてくれたの、河村君だけだから。私、自分でも何て言ったらいいか分からなくて誰にも言い出せなかったし、ちゃんと言えなかったけど、でも河村君は聞いてくれた」
 確かに、彼女はクラスでも浮いた存在だったと思う。正直な所、僕だって図書室の一件がなければ彼女とは話す機会など無かっただろうし、思いだそうとすれば思い出せるレベルの存在で終わっていたはず。けれど、それと話を聞く聞かないは別である。僕は話しかけられたから当たり前に受け答えただけに過ぎない。それとも他の人達は、そこまで彼女を普段から蔑ろにしていたんだろうか。僕は、彼女の事などほとんど印象には無かったから、その疑問がどちらなのか思い出すことさえ出来なかった。
「河村君は私の事が嫌い?」
「え? 別に僕はどっちでも……。嫌いとは思った事は無いよ。嫌いなら話なんて聞きもしないから」
「ありがとう」
 彼女にお礼を言われ、僕の中で同居する恐怖と困惑は遂に困惑が勝った。まるで彼女の行動の意味が理解出来ない。一体これらの行動の目的は何なのか。もはや想像や推測だけではどうにもならないほど根は深くなってしまった。だから、ここまで来たらもう後には退けない、もう遠慮するべきではないと思った。今ここで疑問に思っている事を全て明らかにしなければ、このまま彼女だけがただ納得しそのまま終わってしまいそうに思えるからだ。
 顔の怪我は誰につけられたのか。
 僕に様々な事件を聞かせ感想を求めるのは何故か。
 七大事件なんて作り出したのは一体何のためか。
 何故、七番目は欠番なのか。
 ここへ僕を連れてきた理由は何なのか。
 さっきの行為の真意は何なのか。
 疑問に思う事は山ほどあった。けれど、何よりもまず訊いておきたい事はこれである。僕が、彼女の不思議な行動に対し根幹から感じた一番の疑問だ。
「沢本さん、もう出来ればとか軽いことは言わないから。ちゃんと答えて欲しい」
 彼女はうつむいたまま微動だにしなかった。けれど僕は、その沈黙を勝手に肯定と解釈し言葉を続ける。
「実は、本気で誰かを殺そうと思ってるんじゃない? 僕以外の誰かを」
 共に小学生同士、大人が聞けばさも失笑を誘うであろう僕の質問。だが、僕には確信があった。彼女は遠回しに、自分は人を殺そうとしている事を訴えている。そうでなければ、これまでの事の辻褄が合わないのだ。そして、あの包丁もそうだ。子供の悪ふざけにしてはあまりに物騒で危険である。これだけの事が出来るのなら、少なくとも誰かへの殺意は明白だ。
 決して自分の質問は非情だとは思っては居ない。けれど、彼女が答えてくれるかどうかまでは自信が無かった。答えるつもりがないのであれば、強要するという選択肢も無くはない。だが、女子を相手に、その上怪我もしているというのに乱暴な事は出来ない。こんな質問をするだけでも一線を越える思い切りが必要だったのに、これ以上は幾らなんでも無理だ。更に一歩踏み越える思い切りはともかく、その弾みで自分の歯止めが利かなくなるかもしれない恐怖心があるからだ。
 手は出さなくとも、言葉だけで強く詰め寄れば何とかなるのではないだろうか。でも、うつむいて落ち込んだままの彼女に詰め寄る事はとてつもなく覚悟がいる。そう僕が二の句に困窮していたその時だった。おもむろに彼女は自ら俯けていた頭を持ち上げる。
「河村君には、私がそんな事を考えてるように見えてたんだね」
 見えている?
 彼女の言葉に僕は一瞬息を詰まらせた。見えている、という事は彼女の本心と僕の認識が違っているという事だ。
 彼女に対しては推測ばかりで理解したつもりになっている部分が多いが、殺意如何だけははっきりと確信していたのに。包丁など持ち歩いておきながら否定するなんて、それはむしろ不自然だ。彼女は誰かを殺そうとしている。そしてそれを知って貰おうとしている。これだけは絶対に揺るがない事だと思っていたのに。
「どうして付き合ってくれたの? 私を怖いって思わなかったの?」
「そんな馬鹿な考えを改めさせるためだよ。出来るだけ、さり気なく、ね。真正面から言ったって聞き入れる人なんか極僅かだから」
「そう……やっぱり河村君は優しいね」
 彼女は右目をそっと細め、僅かに笑みを浮かべた。そして足元に落ちたタオルを拾うと、それを包丁へぐるぐると捲きつける。包丁が完全に覆われると、これはもう用が済んだものと言わんばかりに、無造作に地面へと放り捨てた。
 これで状況は収束した。ひとまず、大丈夫だろう。そう安堵すると、汗がふつふつと浮かんできた。彼女の狂言とは言え、随分恐ろしい体験をしたものだと思う。もしこれが僕以外の誰かに見られていたら、間違いなく警察沙汰になっただろう。そんな拗らせ方をすれば、間違いなく彼女の事は更正どころか永久に何も分からなくなっていたはず。無論、彼女も騒ぎになる事を避けるためここに僕を連れてきたのだろうけれど。
 落ち着くのも束の間、僕は次の課題に思考を移した。彼女が誰かを殺そうとなど思っていないのであれば、もっと多くの事を聞き彼女が置かれている境遇を理解する必要がある。その上で、今のを含めたこれまでの行動にはどんな理由があったのか探り当て、そして今後の彼女との接し方も考え直す。
 まだまだ落ち着くには早い。そう疲労感を滲ませながらそっと微苦笑する。すると彼女はまた不意に口を開いた。
「ねえ、河村君」
「何?」
「今夜でお別れしようと思うの。もう顔を合わせる事もないわ」
 顔を合わせる事が無い?
 僕は言葉の意味が理解出来ず、眉をひそめ問い返した。
「それって、どういう事?」
「そのままの意味よ」
「そのままって、じゃあ家には帰らないの?」
「今までありがとう。優しくしてくれて」
 僕の問いには最後まで答えず、そう言い放った直後だった。不意に彼女は僕に詰め寄り突き飛ばすと、そのまま踵を返し一目散に駆けて行った。
「ちょ、沢本さん! 待ってよ!」
 不意を突かれあっさり尻餅をついた僕は、すぐに立ち上がりランドセルを放り捨てその後を追う。しかし最初で大きく後れを取ってしまった上に駆け足にはあまり自信のない僕は、辛うじて彼女の背中が見えるほどの距離しかキープする事が出来なかった。
「待って! 何のつもりだよ!」
 僕の叫びにも一切振り向かず駆けていく彼女。その向かう先、それは公園の敷地よりも更に奥の、鬱蒼と生い茂る森林だった。