BACK

 気持ちには幾分か躊躇いがあったが、逆に僕の足は迷わず森の中へ突っ込んでいった。直後、僕は視界を覆う薄闇と手足を擦る枝葉の洗礼を受ける。
 森の中はまるで別世界のようだった。周囲は鬱蒼と生い茂る木々が西日を遮るため薄暗く、群生する目線ほどの高さもある薮が執拗に行く手を阻んでくる。薮だけでなく、乱雑に生えた大小の木々から伸びる枝は強引に突っ切ろうとする僕に容赦がなく、手足を引っかいたり絡み付いたり、時には頬や額を強かに打ち付けてくる。
 歩く道すらない薮の真ん中へ突っ込んでいくのは、自ら怪我をしに行くようなものである。見る間に増えていく体中の痛みに、僕は顔をしかめた。
「沢本さん、待ってよ! どこに行く気だよ!?」
 走りながら有らん限りの声を上げて叫ぶ。だがそれに対する返答は無く、薄闇に包まれた視界の先から僅かに薮を掻き分ける音が聞こえるばかりだった。
 彼女と僕の差は一向に縮まらず、むしろ離され始めているくらいである。その理由は簡単だった。体中の擦り傷は元より、走りながら自分がどこまで森の中へ入っていったのかを気にし始めたからだ。限りなく森の奥深くまで進む事に躊躇が無い彼女と、どこまでなら元の場所へ戻れるのかと後ろを考える僕とで、進む力は違って当然である。
 僕の足はやがて少しずつ勢いを失っていった。怪我と疲労と不安感、それらが入り交じって重りのように足へまとわりついてくる。意識を前方へ集中させれば取り払う事は出来た。だが、それが一度切れた時には、何故さっきで踏み留まらなかったのかと大きな後悔となって押し寄せてくる。集中と後悔を繰り返した所で、僕は一方的に削がれるばかりだ。
「いい加減止まれ! これ以上進んだら戻れなくなるだろ!」
 語気を強め、僕は彼女のいるであろう方向へ向かい怒鳴った。しかしひたすら藪を掻き分けて行く彼女の音は前へと進んでいくばかりで一向に立ち止まる気配は無い。僕でさえ既に全身傷だらけで足も石のように張り詰めている。振り返れば自分が森の中へ入ってきた地点などとっくに見えなくなっており、今からでも戻れるのか不安で仕方ない。なら彼女も同じ、若しくはそれ以上の苦境のはず。それなのに足を止めようとしないのは一体何故なのか。
 彼女は一体どこを目指しているのだろうか? 戻れないかもしれないとか不安は無いのだろうか?
 もう僕と顔を合わせる事は無いと言った彼女。それが事実となれば、彼女は明日からもう二度と学校へは来ない事になる。学校に来ないという事は、うちにも帰らない事になるかもしれない。そうなると、そもそもこの町からもいなくなってしまう可能性も出て来る。
 町を出て行くのはいい。だが、出て行った所で行く宛はあるのだろうか? 子供が多少大それた家出をしたとしても、すぐに親は警察に連絡し瞬く間に見つけられるだろう。それが分からない年齢ではないはずだ。
 仮に、既に行く先が決まっていたとする。だが、それならそれであんな別れ方をする必要はないはずだ。彼女らしさを想像するなら、何も言わず次の日にふと居なくなっている、それが一番自然だ。そしてそもそも、こうやって薄暗い森の中へ飛び込む目的が分からない。
 ならば彼女は、行く宛も無く飛び出したのだろうか? 行く宛が無いから森の中へ入っていった? しかし、そんな事をどうして何になる? まさか彼女は、この世から消え去りたい?
 そう思った瞬間、僕は足をもつれさせ、前のめりになりながら盛大に転倒した。
「くそっ、ふざけんな……」
 悪態をつきながらすぐに立ち上がり、僕は再び前へ走ろうとする。だが転んだ拍子に捻ったらしく、右足首がじわりと熱く痛みを発した。途端に、出来るだけ考えないようにしていた、こんな奥まで来て果たして戻れるのか、という不安感が強くなり始め、前に進む事を躊躇った。
 彼女のため、ここまで危険を冒す義理はないはず。ここまでやったのだから、もう十分ではないのか。そんな誘惑が僕の踵を返させようとする。けれど、僕は何とかそれらの雑念を振り払い再び前へ進んだ。それでも僕は放っておく事が出来なかったのだ。まだ彼女がどうしてあんな行動を取ったのか、僕は全て理解していない。それだけでなく、ここで彼女を見捨ててしまったらもっと取り返しがつかない事になってしまう。
 疲れ果てた上に怪我をした足ではまともに歩く事も出来ない。それでも痛みからも意識を逸らし、騙しながら藪を掻き分けていく。進めば進むほど不安感は重く背中に圧し掛かってくるが、それも足の痛みと同様に意識を逸らせば重さを感じなくなった。
 今まで追い続けてきた、前方から聞こえていた藪を掻き分ける音は、もう聞こえてこない。
 僕がもたついている内に彼女は遠くへ行ってしまったのだろうか? いや、彼女の事だからしつこく追ってくる僕に呆れて、この先で僕を待っているに違いない。
 そんな淡い期待を抱いたが、幾ら進んでも一向に彼女の姿が現れる事は無かった。その非情な現実に悲観せず、僕はただひたすら黙々と森の奥へ奥へ右足を引き摺るようにしながら分け入っていく。
 走っている時は風を切る音で聞こえなかったが、薄暗い森の中は想像よりも遥かに音で溢れている。木々のざわめきや枝葉の擦れる音、良く注意をすればカラスの鳴き声や小鳥の羽ばたきまで聞こえる。けれど、それらは驚くほど寂しく不気味だった。
 こんな場所の最深部を目指す彼女の心理が理解出来なかった。いや、理解しようとした所で考え付く答えは一つだけである。ただ、それを否定か阻止かをしたくて、僕は自分の体に鞭を打って後を追っている。自分が後味の悪い思いをしたくないだけかもしれない。だが、ただそれだけのためにここまで自分を追い込むはずは無く、自分の中の善意や正義感がそうさせているのだと、固く信じた。
 僕は必ずやれる。彼女を説得し正しい道を歩かせる。
 最初の決意と同じ言葉が空しく脳裏を駆け巡った。僕は結局何もやれなかった。説得どころか、最後まで何を考えているのか理解も出来なかった。そして今、もう追いつけるはずもないと分かっているにも関わらず、ほんの少し残るプライドを燃やし、果敢とも馬鹿げているとも言える前進を続けている。
 やがて体が意志とは逆に足を止めると、勇ましかったはずの意識も遂に折れる。予め示し合わせたかのように、それはほぼ同時だった。
 僕はもう、それ以上進むことが出来なかった。歩くにしても前進は出来ず、停滞か後退か、そのどちらかしか選ぶことが出来なかった。自分の中の決定的なものが断固として許さなかった。そんな自分を客観的に見る目は何と情けないのだろうと嘲り軽蔑する。僕は自分の挫折に釈明の言葉もなく、ただただ悔しさに震えた。
「沢本ッ! お前、一体何考えてんだ!」
 声の限りを振り絞りそう叫ぶ。その声は驚くほど周囲に響き渡り、そして反響した。だが、幾ら待っても彼女からの返事は聞こえて来なかった。