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 右足を引き摺りながら闇雲に薮を掻き分け続けた末、ようやく森から抜け出しあの寂れた自然公園に辿り着いた。
 薄暗いのは森が鬱蒼と生い茂っているからだとばかり思っていたが、とっくに西日は沈み、公園は一つしかないぼろぼろの街灯の光と、夜空に浮かぶ月明かりだけで微かに照らされているだけで、その暗さに驚かされた。一体どれだけ森の中へいたのか分からなかったが、途方もなく長い間歩き続けていたと思う。森の外もそれだけ時間が経過してしまっていたようだ。
 僅かな明かりを頼りに、僕は彼女の残したランドセルの元へ向かった。象牙色の背の部分に手を置いてみると、僅かに夜露で湿っていた。柔らかいがじっとりと冷たい感触、ここにはもう体温は残っていない。
 彼女のランドセルを持ち上げ、ベルトを左腕に通す。教科書の重みに無数の擦り傷が痛み思わず体のバランスを崩したが、僕は何事も無かったかのようにもう一度取り直した。怪我を理由に落としてしまうのは、恥の上塗りと思ったからだ。
 ランドセルのすぐ側にはタオルに包まれた包丁も落ちていた。それも取り上げた僕は少し考えた後、近くの茂みに向かって思い切り投げ捨てた。これで彼女は誰も殺さない。そんな、今ではもう見当外れになったかつての推測が頭を過ぎった。
 僕は彼女のランドセルと共に帰路に着いた。一人とぼとぼと歩く道路がやたら寂しく思ったが、それは決してすっかり日が落ち真っ暗になってしまったからだけではない。だけど、掘り起こして言葉にするほどの気力は無かった。
 今は何時になってしまったのだろうか? もう両親はとっくに家に帰っているんじゃないのか? もしそうなら、僕が帰ってきていない事をおかしいと思っているはずだ。
 学校で定められた門限は六時、その時刻はとっくに過ぎている暗さだ。普段はほとんど門限など気にしないが、さすがに今日は遅くなり過ぎたと思う。門限を破り、放課後に外出禁止になった人の噂は時折耳にする。僕のクラスにも先月三人ほどいた。僕もきっと同じようになるだろうけど、特に不安は感じなかった。そんな事などどうでも良くなるほど、何も考えられなかった。これだけ傷だらけになり疲れ果てても、まだ気持ちは彼女の方を向いていたからだ。
 僕は歩いている間もずっと彼女の事を考えていた。これまでのように、何がどうとか、きっとそうに違いないとか、そんな思考とは違うもっと穏やかなものだけれど、結局は彼女が何を考えていたとか何故分かってやれなかったとか、そんな悲観的な思考に陥ってしまう。
 とどのつまり僕には、最後まで彼女の事を何も分かれなかった、未練がましい後悔が残り続けていた。初心の勇ましさと、今の惨めな姿とのギャップが大き過ぎて受け入れ難いのだ。
 これから僕は彼女に何をしてやればいいのだろうか。
 特に最後の彼女のイメージは強烈に焼きついている。まるで悪鬼のように片方の目だけで強く僕を睨みつけ包丁を構えた姿も、口元だけ僅かに微笑んでキャンディの箱を傾けた姿も、僕にとっては忘れがたい光景である。だから、このまま何もせず日常には戻りたくなかった。きちんと最後まで何かをしてやりたい。しかしその方法も彼女の行方すらも分からない。手の打ちようがない自分の無力さを、改めて歯痒く思った。
 森の中で見失った事は実感に乏しかった。あまりに非日常的過ぎて、何かの悪い冗談としか思えなかったのだ。けれど、もあんな鬱蒼とした森の中へ冗談で踏み込むはずがない。予め何か無事に戻れる用意をしていたとしても、そこまで手の込んだ悪ふざけを彼女がするとは思えないし、する意味も無い。彼女のこれまでの行動には何かしら意味があったのだと僕は思う。ただ、それを遂に理解してやれなかっただけで。
 彼女がわざわざ僕の目の前で去ろうとしたのは、僕に止めて欲しかったからだろうか?
 最後に見た彼女の背中を思い出し、そう僕は考えた。彼女は望んで森の中へ踏み込んだのではない、何かの事情で已む無く踏み込んだのだ。言ってしまえば自殺である。それを僕は目の前にいながら止める事が出来なかった。これこそが本当に止めるべき凶行であったはずなのに。僕は自分の身を惜しんで断念してしまったのだ。この事実だけは揺らぎようがない。
 気持ちが落ち込んでいるせいか、家までの距離がやけに長く感じた。まだ途中の流原川すら見えて来ない。振り返ればあの森が見えてきそうなほどの距離しか進んでいないかもしれない。右足の痛みは更に酷くなってきている。走るにしても、疲れ果てた足は前へ出すのがやっとの状態だ。この調子で歩いていたら、家に着くのは朝になってしまうかもしれない。これまでにない大事だけど、相変わらず僕の頭は自分の置かれた立場にまるで無関心だった。
 疲労と多少の空腹感。それらを押さえ込むのに何度目かの溜息をついた時だった。不意に背後から車の音が聞こえ、僕は反射的に振り返った。まず目に付いたのは、暗闇をぐるぐると掻き回す真っ赤な毒々しい光だった。パトカーのパトランプだ。そう僕は直感した。
 程無く道路の奥の暗がりから一台の車が現れた。ハイビームのライトが目に入った僕は、足を止め手のひらで顔を覆う。そんな僕の姿を見つけたのか、車はすぐに減速し手前で停車した。
 運転席から降りてきた人は真っ直ぐ僕の方へ駆け寄ってきた。僕の父親と同じぐらいの年齢の男性、しかしその服は普段間近で見る事は無い、警察官の制服だった。
「キミ、もしかして河村将太君?」
 慌てて降りて来た割に、あまり大人らしくないわざとらしい猫撫で声で話しかける警察官。それに僕は無言で頷いた。
「こんな時間まで何をしていたの? お父さんとお母さんが心配しているよ」
「ちょっと遊んでて……道に迷って」
「そうか。とにかく、車に乗って。うちまで送ってあげるから」
 僕はまた無言で頷き後部座席に乗り込んだ。
 運転席に乗り込んだ警察官は、ハンドル脇の無線で何か報告を始めた。多分僕の事だと思ったが、興味は沸かなかった。パトカーに乗るのは初めてのことだし、父親の車には無い設備が幾つも見つけたけれど、それらを数え目に焼き付けようという好奇心は無かった。だから警察官が報告を終え無線機を置いても、顔をうつむけ座ったままの姿勢を動かさなかった。
「将太君、そのランドセルはお友達の?」
 そう問われ、僕は持っていた彼女のランドセルを一瞥する。少し考え、ゆっくり頷き返す。視線は落としたままだった。
「もう一人の子はどこにいるの? この近く?」
 今、彼女がどこにいるかなど分からない。だから僕はうつむいたまま答えなかった。
「うん、そうか。じゃあともかく、お家へ帰ろう。お父さんとお母さんが派出所まで迎えに来ているそうだから」
 僕の反応を訝しむ事もせず、警察官は人当たりの良い優しい声で答えシートベルトを締めると車を発進させた。おそらく、僕の沈黙を行方は知らないものと解釈したのだろう。確かにそれで間違いは無い。だが本当は、僕は途中までは知っている。警察官がその可能性を疑わなかったのは、本当に知らないと思っているのか、捜索には影響は無いからなのか、それとも疲れた様子の僕に対しての配慮なのか。知らない、と口にするのは胸が締め付けられる思いだったが、警察官に対する後ろめたさは不思議と感じなかった。
 警察が動いているという事は、彼女の両親は捜索願を出したのだろう。ならばきっと、すぐに大規模な捜索がされるはず。子供ではなく、大人が何十人も動員され捜索するのだ。あんな森の奥深くに隠れていても、すぐに彼女は見つかるに決まっている。
 彼女が見つかったら、今度こそもう一度話し合おう。今日出来なかった事を全て達成するのだ。
 そう思ったけれど、本心では警察でも彼女は見つけられないような気がした。彼女が言い放った別れの言葉の通り、僕はもう二度と彼女と顔を合わせる事が本当に無い予感がするのだ。
 ただの子供が、警察の目を掻い潜り完全な失踪を遂げられるはずはない。当然のはずの事だけど、今回だけは例外が起こるかもしれない。瞼の裏に浮かぶ彼女の姿は、僕にそう思わせた。