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「父さん、どう?」
「いや、さっぱりだな」
 空は快晴、そよ風は涼しく天気は申し分無かった。昼前の港はとても静かで、耳をすませば波の泡立つ音が聞こえてくる。風が緩やかなため波も小さい。けれど船着き場に停まっている沢山の船はみんなゆらゆらと左右に揺れていた。
 日曜日、昨夜いきなり父親に釣りに誘われたので海に来ていた。天気予報では快晴と出ている事だし気分転換には最適と、僕は二つ返事で了承し、朝も暗い内から出かけた。釣りをするのは一年ぶりで、前は町内会のイベントだったと思う。あの時は偶然かなり大きな魚が釣れて、かなり興奮して帰ったのを覚えている。釣りと聞いてその時の興奮が蘇り、また釣れるはずだと根拠もなく僕は確信していた。
 防波堤には僕達親子の他、何人か釣り人の姿があった。みんな自分の陣地を決めているかのように一定の間隔を取っている。僕達が陣取っているのは防波堤の先端、最も外海に近い場所だ。一番乗りでやって来て真っ先にこの場所を取ったのだけれど、未だ一匹の釣果も無い。何度か当たりはあるのだが、父親曰くそれは餌を小突いているだけにしか過ぎないのだという。だからもっと興味を持たせるように竿を使わないといけないのだけれど、すぐ近くまで魚が来ている光景が想像出来るせいか、竿を握る手には巧みに捌けるほどの落ち着きはなかった。
 防波堤から海へ向かって糸を投げ、何かしら感触があったり痺れを切らした頃に糸を捲く。ひたすらそれの繰り返しだった。他の所では何匹か釣れているようだった。あんな港近くで釣れるのかと思っていたけれど、どうやら全く釣れていないのは僕達だけのようである。防波堤の先で釣ろうとするなんてどこの素人だ、そんな声が聞こえてくるような気さえした。
 二人で黙々と釣果の無い糸を繰り出す作業ばかりしているため、次第に僕は今日は釣れないのではと思い始めた。せっかく早起きして来たのに釣れないのでは面白くない。何としても一匹は釣ろうと、僕なりに針を放る向きを変えたり餌の付け方を工夫したりしたが、それでも何も変わらなかった。
「将太、そろそろお握り食べるか?」
「だね。休憩しよう」
 昼過ぎになって僕は竿を一度置き、母親が作ったお握りと数品のおかずが入った弁当を食べた。普段の昼食は給食だから、作って貰った弁当を食べるのは新鮮だった。これで一匹でも釣れていればもっと気分は良かったんだけど、食事時くらいは考えない事にした。
「ねえ、ここって場所悪いんじゃないの? 港寄りの方が釣れてる感じなんだけど」
「そんな事無いぞ。ああいう所に溜まるのは小さいのばっかりだ。どうせなら大物を狙わないと」
「大物ねえ」
 そもそも防波堤先で釣る根拠は何なのだろうか。父親の方が自分より釣りには詳しいはずだけれど、この釣果を見る限りではそれも大分疑わしくなってくる。
「来る途中に大きな産直あっただろ? 海鮮市場って。帰りにあそこに寄ってお土産を買おう」
「ん? もう釣るのは諦めた?」
「あくまで保険だ、あくまで」
 そんな取り留めのない会話を交わしながら昼食を終え、再びそれぞれ海へ向かった。
 海に来ると決まった時から予め心の準備はしていたのだけれど、父親は事件の事について一切触れなかった。もう過ぎた事だから、今更穿り返すつもりは無いのだろう。けれど僕の心情は気になるから、こうして時間を作ったんじゃないかと解釈している。けど、本当にそれで良いのかと僕は疑問だった。幾ら過ぎた事だと言っても、彼女の行方や彼女の父親の逮捕の理由などはっきりしていない事が多過ぎる。彼女の行方はともかく、逮捕の理由を大人達が知らないはずが無い。ただ、子供には有害な情報だと遠ざけているから僕達の耳にはいつまで経っても入って来ないのだ。
 当事者である僕が何も知らないまま日常へ戻って良いものか。その疑問はずっと胸の奥につかえている。けれど、僕も自分の判断で話していない事があるのだから、結局のところどっちもどっちなんだと思う。きっと、どこからともなく流れてくる根も葉もない噂は、こういう大人と子供の溝から生まれてくるのだろう。
 引いた引かないの会話を繰り返し、必ず釣ってやろうという興奮もとっくに覚め、太陽も西日へと近づいて来た時だった。突然、弛みながら持っていた竿に僅かな引きが起こる。咄嗟に水面を見つめるものの、仕掛けが波に揺られたのを勘違いしているかもと思い直し竿はそのままで姿勢をキープする。感覚を手のひらに集中させじっと息を潜めていると、再び竿から引きの手ごたえを感じた。竿の先も断続的に上下にしなっている。明らかに波ではない、魚の手ごたえだ。
「父さん、引いてるよ! ビクビクいってる!」
「何、本当か!? まだだぞ、すぐに引くなよ!」
 慌てて駆け寄ってくる父親も他所に、僕の視点は竿先から垂れる糸の先にのみ集中している。俄かに去年と同じ興奮が蘇り、竿を握る手が緊張で汗ばむ。自分自身に冷静に冷静にと何度も言い聞かせ深呼吸し、竿を改めて構え直す。ゆっくり落ち着いて、魚が餌ごと針を完全に飲み込むのを待つ。後はそこから一気に引き上げるのだ。
「いい? もうそろそろいいよね?」
「うん……よし! 巻け!」
 父親の掛け声と共に僕は一気にリールを巻き上げた。竿からはびくびくと痙攣するような振動が伝わってくる。やはりかかっているのは魚に間違いは無く、感触からしてかなりの大物のようだ。流石に海へ引っ張り込まれるほど力は無いが、腰を落として踏ん張り竿をしっかり握っていないと竿を振り払われてしまいそうだった。しかし、その強烈な反発が僕に火をつける。僕は歯を食いしばりリールを夢中で巻きながら竿を引いた。
「あ、見えたぞ! もう一息だ!」
 父親が指を刺す先に、薄っすら白い魚影が光っている。もう一息だ。僕は最後の力を振り絞って竿を引き上げた。
「釣れた! ちゃんと掛かってる!」
「おお、かなり大きいぞ!」
 引き上げられた魚影が宙を舞い、のた打ち回りながら水飛沫を飛ばす。釣り上げたのは、白い腹と緑がかった背中の大きな魚だった。僕が想像していたよりも一回りほど小さかったが、自ら飛び上がるほど激しくのた打っている。釣り上げられた後の方が生きが良さそうだ。
「これ何って魚? 食べられる?」
「これはイナダだな。刺身にするくらいは無いから煮付けにしよう」
 刺身になるほどでは無いにしても、魚が釣れた達成感に僕は叫びたいほど興奮していた。これまでの退屈がまるで嘘のようで、初めて今日はここに来て良かったと思えた。
 そういえば、今まで何をあんなに落ち込み悩んでいたのか。そんな気すら起こしてくる。でも、それだけは思ってはいけない。激しく跳ねる魚をクーラーに入れながら自分を戒めたが、揺らぎは大きくなる一方だった。やはり日常は楽しい方がいい。それはどんな理屈を並べても否定は出来なかった。