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 釣りから家に帰って来たのは夕方近くだった。釣れたのは僕のイナダだけで、これだけでは夕食のおかずにはならないからと結局港近くの市場に寄る事になった。如何にも釣りの帰りという風体で魚を買う事に抵抗があったため、買ったのはハマグリやエビといった普通は釣れないようなものばかりである。僕は一匹釣ったという意識があるので何とも思わないのだけど、流石にボウズの父親には抵抗というか恥ずかしい思いがあるようだ。
 車から降りた僕は、早速クーラーボックスを背負って家へ入った。中身が少々重かったが、自分で釣った魚を母親にも見て貰いたいという気持ちの方が強かった。
「ただいまー」
 家の中では夕食の準備をする香りが漂っている。車の中でパンを一つ食べたけれど全然足りず、空腹が香りに敏感に反応する。
「お帰り。どうだった? 釣れた?」
「僕は一匹だけ。父さんは駄目だったんだよ」
「そう、残念ね。それで何が釣れたの?」
「これこれ。まだ生きてるかな?」
 クーラーボックスの中身を開けて見せる。中にはイナダが白い腹を見せて横たわっていた。大分ぐったりはしているが、まだエラが若干動いているため生きているようだ。
「じゃあ、ムニエルにでもしてみましょうか」
「あとこれ。父さんが途中で買ってきたやつ。ハマグリってこのまま焼けばいいのかな?」
「砂抜きしないと食べられないから明日にしましょう。エビは茹でるのと味噌汁とどっちがいい?」
「茹でてマヨネーズがいいな。あんまり味噌汁には入れても合わなさそうじゃん」
「じゃあそうしましょうか。お風呂沸いてるから先に入りなさい。御飯までまだかかるから」
 クーラーボックスは玄関へ置き、そのまま風呂場へと向かう。シャワーで頭を洗うと、やけに髪同士がくっついていて指が何度も引っかかった。今日一日での汗もそうだけど、潮風のせいもある。今日は食事も豪勢なのだからすっきりして食べたい事もあり、僕は珍しく頭は二度洗った。
 風呂から上がると、台所では父親がもうビールを飲みながら焼いたイカを食べていた。市場で買い物をした時におまけで貰ったイカである。イカには別段食指は動かないのだけれど、食べている行為そのものに僕の空腹は反応する。そろそろ本気で何か食べたくなり、我慢も限界が近い。
「さて、こっちも先に風呂に入るかな。ああ、そうだ。あのハマグリさ、元々砂抜きしてるんだって。網焼きの道具、どこに置いてたっけ?」
「確か表の物置じゃないかしら? この間整理した時に見かけたもの」
「じゃあ将太、ちょっと行って見てきてくれ。それから夕刊も一緒に」
 そう言い残して父親は風呂場へと行ってしまった。お酒が入ると面倒臭がりになるのはいつもの事である。せっかく風呂に入ったのに外へは出たくないが、母親の夕飯の支度を邪魔するのも悪い。仕方なく残っていたイカの足を取ってくわえながら庭へ出た。
 家には車庫が隣接しているのだが、その更に隣の庭の隅に小さな物置があった。主に家の中でも滅多に使わないような物を隔離するために使っている。その中に、前に餅を焼くために買った七輪がしまってある。引っ越して最初の正月に、せっかくだから本格的にやろうと勢いで買ったのだが、それ以来全く使わなくなってしまっている。
 そう言えば七輪は炭がないと焼けないのだが、炭のストックはあっただろうか? そんな事を思いながら物置を開ける。するとすぐに七輪のくすんだ写真の貼ってある箱が見つかったが、かなり奥にあるため引っ張り出そうにも腕の長さが足りない。
 本気で取りにいったら汚れてしまう。父親に風呂へ入る前に取って貰った方がいいだろうと、僕は一旦家へ戻った。ついでに夕刊を取る事も忘れない。途中玄関脇の郵便受けの中を覗いた。
 小さな郵便受けの中いっぱいにある折り畳んだ夕刊はすぐに目に付いた。いつもの事ながら、郵便受けの受け口は幅一杯ほどしか無いのに、よくこうも綺麗に入れられるものである。そう不思議に思いながら夕刊を手に取った。
「ん?」
 そして蓋を閉めようとしたその時だった。郵便受けの中に夕刊以外の物が入っているのが目に付き、咄嗟に蓋を閉めようとした手を止める。
 何か届いているのだろうか。そう思いながら手を伸ばし、それが手に触れ小さな音を立てた直後、僕は息を飲んだ。
 すぐに郵便受け中を引っかき回し、出てきた物は二つ。一つはポケットに入れるには少し大きいキャンディの箱、もう一つは見覚えのある名前の無いノートだった。
 キャンディの箱はまだ封が切られておらず新品のようだった。アルファベットが前面に躍り出て、その下に小さくカタカナでビターレモンと書かれている。こんなキャンディを食べる人を、僕は一人しか知らない。そう、もう一つのこのノートの持ち主だ。
 まさか。
 何故。
 そんな単語が脳裏を駆け巡り、僕はすぐ表へ飛び出した。
「沢本さん!」
 夕暮れ時の通りの真っ直中、歩いている人は無く車の通りも無い。そう声を張り上げた僕への返答は何も無かった。しかしすぐには納得がいかず、怪しい人影は無いかと周囲を出来る限りつぶさに見回す。
 でも、冷静に考えれば当然の事だった。夕刊の下にあったという事は、これらは夕刊が届くよりも前に入れられたという事なのだ。今更探した所で、帰ってくるのを待ち伏せでもしてくれていない限り見つかるはずがない。
「沢本さん! いるんだろ!? 返事してよ!」
 僕はもう一度叫んだ。いるはずもないのに、僕は叫ばずにはいられなかった。僕からフェードアウトしかけていた彼女が、急に身近に接近したように思え、それで居ても立ってもいられなくなっていた。
「沢本さん!」
 もう一度声を張り上げ周囲に呼びかける。けれど聞こえてきたのは、近所に住む犬の驚いたような鳴き声だけだった。
「くっ……うう」
 彼女はもういない。
 その言葉が過ぎった瞬間、僕はその場に膝をついた。急に泣き出したいほどの激情に捕われ、立っていられなくなったのだ。いや、泣き出したいどころか既に僕は自分でも分かるほど嗚咽を漏らし視界を歪ませるだけの涙を流していた。自分でも知らない内に、いつの間にか泣き出してしまっていたのだ。
 これほどの強い衝動に駆られたのは生まれて初めてで、自分でもどう抑えればいいのか分からなかった。僕は自分が何故泣いているのかよく分からなかった。彼女が生きていたという喜びなのか、姿を見せてくれるほど信用されていない悲しさなのか、結局自分は彼女に何も出来なかった悔しさなのか。とにかく彼女に対しての色々な思いが一緒くたになって僕の中で渦巻いている。ただ、こんな間接的な方法ではなく、ちゃんと面と向かって受け取りたかった。辛うじて整理のついた部分はそんな気持ちだった。
「将太? 誰か来たのか?」
 玄関から父親が怪訝そうな声で問いかけてくる。僕の声を聞きつけたのだろう。
 僕は首を振った。声に出して答えれば自分が泣いている事を知られてしまうと思ったからだ。
「ん、そうか……。とにかく、そろそろ御飯だから早く入りなさい。湯冷めするぞ」
 父親はそう言って家の中へ戻る。多分気づかれたと思う。でも、実は彼女の事だけでなく沢本家の事情まで知っていて、それを僕にあえて離さない負い目があるから気づかない振りをしたのかもしれない。けど僕には、父親を引き留めそれを問いただすような真似に及ぶだけの余力は無かった。
 僕はそれからもしばらく泣いていた。
 端から見れば、親に叱られて家から追い出された子供のようだった。
 一体どうして彼女はこんな事をしたのだろう。
 それについて、自分なりの答えが見つかるまで、僕は泣き続けた。