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 長い冬が終わり、ようやく春らしい季節が近づいて来たと感じ始める。
 僕はその日も一人で山を散策していた。深山と呼ばれている険しいこの山も、今よりもずっと小さな頃から遊び場にしている自分にとっては、家の庭の延長のようなものでしかない。それだけに、好奇心をくすぐるものも無ければ、物珍しい発見も、時間を忘れてのめりこむような出来事も一切存在しなかった。それでも僕が山歩きをする理由は、村に居ても遊び相手として釣り合うような年頃の子供がいないのと、大人達からは仕事の邪魔者扱いをされるからだ。要するに、子供一人では村の中に身の置き場が無いのである。
 村を出てから十数分、特に当ても無く見慣れた景色ばかりを追って散策を続ける。それから最後に向かうのは、山腹にある切り開かれた原っぱ。そこは昔、人間による伐採が麓からここまで登ってきたのだといういわくがある。そのせいでこの周辺だけが不自然に木々が生え揃っていないのだそうだ。しかし、深山の木を勝手に切るとかどうとか、そんな昔の事は僕にとってはどうでも良い話で、ただここにある小高い丘の上に座ると、遥か遠くまでの山脈から麓の辺りにある人間の村までを一望出来るほど見晴らしが良いから来るだけの事だ。
「あー、風が涼しいなあ」
 丘の上に腰を下ろし吹き付けて来る風を全身に浴びる。歩き詰めて汗の滲んだ体には、初夏のそよ風は実に心地良かった。けれど、それも間もなく身の焼けるような熱風に変わるのだろうと思うと、今が一年で最も過ごしやすい季節なのだとしみじみ思える。
 眼前にはいつもの風景が広がっている。人間の町は瞬く間に大きく広がる水墨のようなものだと教えられたけれど、少なくともここの町は僕が生まれた時からほぼそのままだ。去年は大きな台風が通過して一時は随分荒れたのだけれど、それももう今ではすっかり面影も残っていない。親父達はこういう事を言うとあまりいい顔はしないけれど、大昔の伐採の跡が未だに残っているここよりも遥かにずっと逞しくて強いと僕は思っている。
 村に居ても、人間の情報は断片的にしか入って来ず、それがかえって僕の好奇心を掻き立てる。いつもそのたびに、いてもたってもいられない気持ちになるのだ。
 そんな一種の憧れのようなものを抱く人間の町、そこには一つ、願望があった。それは、この深山を降りてあの町で人間の生活に触れてみることだ。夜でも明るく照らす電灯や、凄い速さで移動する四足の車、実際は見たことは無いけれど遠くの人間とまるで傍に居るかのように会話する機械もあるそうだ。僕は一度でいいから、そんな夢のような機械に溢れた生活を味わってみたい、そう心から願う。けれど同時に、それが適わぬ事だという事も知っている。人間の町へ降りるには、大人になり、正当な理由を持ち、長老の許しを得る、少なくともこの三つが最低限必要だからだ。僕が大人になるのは気が遠くなるほど先の事で、ただの憧れや好奇心は正当な理由にはならないだろうし、あの頑固で頭の固い長老の首を縦に振らせる方法など皆目見当もつかない。だから、山を降りればすぐという近さにあるにも関わらず実現は夢のまた夢で、幾つもの困難がそこまでに転がっているのだ。
 しばらく町をボーッと眺めながら、そこで人間に混じり暮らす自分の姿を想像して楽しんでいると、やがて滲み出ていた額や背中の汗も引き始めた。すると気持ちが緩んだせいか、途端に眠気が襲ってきた。それでもすぐには眠るまいと抵抗しうとうとと舟を漕いでいたが、やがて眠気に抗うのに疲れその場に寝転んで目を閉じた。僕は基本的に夢を見ない方で、一度眠ろうとすると寝入ってしまうまでがとても早い。意識はあっという間に落っこちていった。
 それからどれぐらいの時間が経っただろうか。
 ふと意識が戻り始めると、僕はすぐ傍に何かの気配を感じた。初め頭がうまく働かなくて、それを狸か何かだと思った。しかし徐々に頭が回り始めると、それが狸にしては大きく、熊にしては小さく、ざっと思い返した限りで山に棲む動物に当て嵌まるのがいない事に気付いた。
 一体何だろうか。ようやく不思議がりながら、ゆっくりと体を伸ばし目を開ける。
「わっ!?」
 そう声を上げたのはほぼ同時だったと思う。
 目の前でこちらを覗き込んでいたそれ、色白で線の細い体格にこの陽気の中随分厚着をし、その上リュックを背負っているという、この山に棲む何物とも一致しない姿だった。あまりに予想外のものに僕は驚き、体を起こしかけたまま固まってしまった。
「だ、誰だっ! 人間か!?」
 思わず発してしまった自分の問いかけを、言ってしまった後に後悔した。そんなセリフは、普通の人間なら咄嗟に口から出るはずは無いからだ。
 僕の声に驚いたのか、こちらを覗き込んでいた者、その子供は尻餅をついたようなへたりこんだ姿勢で、ずるずると裾を引き摺りながら離れていく。しかし視線は反対に強気の色でこちらに注いでいた。
「お、お前こそ誰だ! 山賊か!?」
「僕のどこが山賊だ!」
 そうこちらもむきになって強気に叫び返すものの、一旦落ち着いて互いの格好を見比べると、それもまた無理からぬと思った。その子供は綿の薄茶のズボンと赤白の格子柄のシャツをきっちりと着込み、頭には一回り大きなハンチング帽を深く被っており、如何にも小金持ちの息子という格好。それに比べ自分は、野山を駆け巡って泥と草露で斑に汚れたズボンに麻のシャツだけと粗野な姿である。山賊という表現もあながち大げさでは無いようにすら思え、なんだか急に自分の格好が恥ずかしくなってきた。
「お前、ここに何しに来たんだ。この先は僕らの土地だぞ」
「別に何でもないよ。お前には関係無い」
 目を背けながら呟くように吐き捨てたその子供は、そのまま踵を返し、大慌てで麓へと降りて行った。直に姿は見えなくなり、気配も遠ざかり、やがてすっかりと消え去る。そこで僕はようやく安心して溜息を一つついた。
 まさか、寝ている間に人間の子供がここへやって来るなんて。
 生まれて初めて間近で見た人間に、僕は酷く興奮し、また動揺していた。しかしほんの少しだけ、人間と会話したという感激もあった。だからだろうか、あの子供が本当に山を降りて行ってしまった時、引き止めてもう少し話をすれば良かったという後悔があった。本当に引き止めていたら大変な事になったかもしれないのだけれど、何となくうまくやれそうな気がする、そういう興奮の勢いに乗った妙な自信があった。
 またあの子供は山に登って来ないだろうか?
 そんな期待を秘めながら、僕もまた家路に向かって踵を返した。