BACK

 翌日も僕はまた同じ場所で景色を眺めていた。それは昨日の子供がまた来てくれる事を期待して自然と足が向いた、というものではなく、ただ単に他に足を伸ばすような所も無かったからだ。
 自分の遊び相手になってくれるような人がいれば、そういう悩みはそもそも無かったと思う。だが実際問題、村には遊ぶのに歳の釣り合う子供はいないのだから、結局はこうやって時間を過ごす事を一人遊びと公言する他無いのだ。
 人間が羨ましいと思う。人間は自分達のような一族とは違って、同年代の子供が沢山居て、毎日学校へ通っているそうだ。遊び相手に困るとか、そんな事は絶対に有り得ないだろう。きっと、今日はどんな遊びをしようとか、そういう幸せな悩みを毎日抱えているに違いない。人間の町への憧れは、自分達には無い文化だけでなく、そういった理由も少なからずあった。
 今日も天気は過ごし易く、遊び回るには絶好の日和だと思った。けれど、どうせただの一人遊びなら天気の都合はさほど重要でも無い。自分が濡れるかどうか、それだけの問題だ。何となく自分がふて腐れている事を実感しながら、しばらく佇んでいる。しかし、それもすぐに飽きてしまい、僕は立ち上がって辺りをうろうろと歩いたり、即興の体操のように体を動かしたりした。不貞腐れているのもそうだが、こうも落ち着きが無くなっているのは、やはり昨日のあの子供のせいだと思う。早くここに登って来いといった、身勝手な妄想が膨らんでしまうのを抑えられないのだ。
 何故、こうも自分が乱されるのか。それは多分、生まれて初めて人間と会話をしてしまったからだ。しかも、自分と歳の近そうな子供が相手だ。胸が躍るような気持ちになるのは自然の摂理だと思う。
「ん……?」
 体を動かす事にも行き詰まり、いよいよ手持ち無沙汰も相まって困り果てたその時だった。ふと、吹き付けてきた風に違和感を嗅ぎ取り、僕は風上の方を振り返る。風向きは西、しかしやや麓から吹き上げてくるそよ風である。人間の町の匂いを巻き上げて来る事も珍しくはないのだけれど、そのほとんどは食事時の準備の匂いだ。
 目を閉じて気持ちを静め、改めて風の匂いに注意を払う。すると今度はよりはっきりと匂いの存在を嗅ぎ取った。
 明らかに匂いの主は食事の準備では無い。しかも、町からではなくすぐ傍、山の中からの匂いだ。僕はずっと山の中に住んでいるのだから、山にあるものならば大概の嗅ぎ分けはつけられる。しかし、これは明らかに山の物とは違う匂いだった。おそらく人間の町にある、不思議な匂い。何よりそれは、興味よりも無性に食欲をそそった。
 一体これの正体は何なのだろうか。僕はいても立ってもいられなくなり、すぐさま匂いの元へ風を辿っていった。小川を飛び越えたり、枝伝いに谷を飛び越えたり、はたまた鬱蒼と生い茂る藪をも突っ切る。この山で生まれ育った僕にとっては庭のような場所だから、大体の方向さえ分かれば辿り着くのは簡単な事だった。それよりも重要なのは、匂いの主が山を降りてしまわないかという不安だった。山を降りてしまえば、僕は掟によりそれ以上は追う事が出来ない。だからこそ早く辿り着かなければならない、そんな焦りが僕の背をぐいぐいと押した。
 程無く風の辿った先へ辿り着き、僕は最後の数歩を一足で飛び上がり着地、すかさず周囲を見回した。
「うわっ!?」
 そんな僕にまず浴びせられたのは、驚きで裏返った素っ頓狂な声。そして、その声を上げたのは見覚えのある顔、昨日の子供だった。着ているものは昨日とは違っていたけれど、同じハンチングを被っているのと、妙に生白い顔ですぐにそうと分かった。どうやら昨日のあれに懲りず、また山に登って来ていたらしい。
「あ、ああ。また来たのか」
 また昨日と同じばつの悪さを思い出した僕は、自分の服についた枝葉や埃を払い身形を正す。
「な、何だ、お前は。急に飛び出して来て。別に僕は何もしてないぞ」
「いや、悪いとか言ってないよ。うん。気にするな」
 彼は驚き半分警戒半分といった様子で身構える。それも仕方が無いと思った。昨日は突然の事で勢いで言ってしまったけれど、ここは自分の土地だから帰れと、一度は追い出したのだ。その当人がまたいきなり現れたのだから警戒されても当然である。
 この状況、どう取り繕うか。そう視線を泳がせた時だった。僕の視線は彼が手にしている物に留まる。それは、銀色の紙に包まれた、出来損ないの炭のような板片に見えた。しかし、どうにも視線を離せない引力を持っている。もしやと思い匂いを探ってみる。直後、思わず腰が抜けそうになった。自分が辿ってきた匂いの主が、まさにそれだったからである。
「あ……あのさ」
「何?」
「いや、その、えーと、それなんだけど」
「それって?」
「食べるものなのかなー、って」
 僕の曖昧な言葉に彼は小さく首を傾げ、そして手にしていたそれを僕の方へ示して来た。僕は反射的に何度も首を縦に振った。その仕草が面白く映ったのかもしれない、彼は少しだけ警戒を解いて口元を綻ばせた。
「これ、知らないの?」
「知らない。見た事も無い」
 その返答に彼は疑わしそうに僕を見た。まさかこれを本当に知らないなんて。そういう眼差しである。だけど、僕はその視線がちっとも気にはなっていなかった。僕の注意はもはやその不思議な物体にしか向いていない。思考もそれ以外の事には回らなかった。
「食べかけだけど……食べる?」
「うんっ!」
 僕は彼が口にしたその言葉に、遂に我を失ってしまった。差し出されるがままにそれにかぶりつく。後はもう興奮で良く分からなくなってしまった。頭の片隅に、これが人間の食べ物なのか、と妙に冷静に分析する理性が僅かばかり残るだけだった。