BACK

「なあ、お前の名前は何て言うんだ?」
 夢中になって食べている僕の傍らで、彼はそう訝しみ半分の表情で訊ねる。
「僕は小太郎、この山に住んでるんだ。そっちは?」
「村上恵悟。恵悟でいいよ」
 恵吾という耳慣れない発音の名前に僕は、ああやはり人間の社会から来た人なんだと、そんなささやかな感動を覚えた。その影響も少なくないのだろう、今夢中でかぶりついているのは得体の知れないもののはずだけど、恵悟が持って来たものだと思うと不思議とありがたみのある格式高いものに感じられる。程無くそれも残らず腹の中に収まり、僕は満足からの溜息を一つついた。そしてふと指を見ると、あれは温めると溶け出すものだったのだろうか、指先がべっとりと茶色く汚れている。それでもあの香ばしさは損なわれておらず、僕は勿体無いとばかりに丹念に唇と舌とでこそぎ取った。
「これ、凄いうんまいね。何て食べ物?」
 そう何気なく訊ねてみると、恵悟は眉を潜めながら首を傾げた。
「いや、別に見たまんまだよ」
「僕、初めて食べたんだけど」
「冗談でしょう。チョコレートも知らないなんて」
「冗談じゃないよ。ああ、これってチョコレートって言うんだ? そう言えば聞いたことがある。外国のお菓子だよね」
「まさか本当に山に住んでるの?」
 目を丸くしながら問い返す恵悟に、僕は一寸返答の言葉に躓いた。どうやら僕が山に住んでいるというのは冗談だと思ったらしい。
「そう言ってるじゃんか」
「昨日のあれ、単なる遊び場所の陣取りみたいなものだって思ってた。僕は他所から来たからさ」
「他所? 麓のあの町に住んでるんじゃないの?」
「今はね。ちょっと別荘にいるんだ。普段はずっと遠くの都会に住んでる」
 別荘とは、普段住んでいる以外の家の事だ。人間社会でもお金持ちが持つものらしいから、恵悟のうちはそのお金持ちなのだろう。あの憧れの町よりも更に遠い都会に住んでいるという事といい、小汚い恰好をしている自分とは明らかに違う身なりなのも当然である。
「ねえ、小太郎はこの山に住んでるんでしょ。山のどこに住んでるの? さすがに野宿している訳じゃないでしょ?」
「立派じゃないけどちゃんとした家に住んでるよ」
「家族は? 他にも同じように住んでる人はいないの?」
 急に恵悟に身辺の事を訊かれ始め、僕は何と答えればいいのか困ってしまった。家族もいるし住んでいる隠れ里には他にも同族が沢山いる。けれど、それを素直に答える訳にはいかなかった。興味本意の人間を入り込ませないための掟がある、里の事は答えられない。
「ずっと奥の反対側の麓に小さな村があるんだよ。田舎の村。そこに住んでるんだ」
「結構遠いの?」
「そこそこかな。僕は子供の時から歩いてるし、慣れてるけど」
「なあんだ。それじゃあ、田舎だけど普通の所に住んでるのか」
 そう溜息混じりに答える恵悟の言葉が僕は引っ掛かった。
「何で残念そうなの」
「いや、親戚のおじさんから聞いてさ。この山には昔から天狗が住んでるんだって。だからそれを探しに来たんだ」
 さらりと答える恵悟の言葉に、僕はどきりと胸を鳴らした。確かに大昔から住んでいるそうだから、そういう伝説が出来てもおかしくはないけれど、実際探しに来た恵悟と面と向かい、しかし自分の素性はしらばっくれるというのは非常に心臓に悪い。
「もしかして、僕のことを天狗だって思ったんだ? そんなのいる訳ないのに」
「まさかこんな所に子供がいるなんて考えてなかったもの。有り得なさ過ぎて、逆に疑っちゃうよ」
「何だよ、そっちだって子供じゃないか」
「僕の方が年上だろ。僕は十三だ。小太郎は?」
 訊ねられるより前に自分の歳を指折り数えていたが、どう数えても僕の方が年下だった。僕はまだ十歳にもなっていないのだから。
 答えあぐねていると、それを恵悟は察したのだろう、急ににこやかになって僕の肩を叩いた。
「まあ、どっちが年上でもいいじゃないか。仲良くやろうよ」
「そうだね。今日から友達になろう。それで対等だ」
 お互い頷きあってがっちりと握手、それから今度は僕もにこやかに笑い返した。
「じゃあさ、今日は僕がざっと山を案内するよ。色々と見晴らしの良い所とかあるんだ」
「大丈夫、迷ったりしない?」
「まさか。ここは僕の庭だよ」
 都会っ子は僕に任せればいいと言わんばかりに胸を張る。それを恵悟は素直にお願いしますと一礼した。やはり自分とは違ってこういう作法すらも格好良い、そう思った。
 しかし、
「あ、ちょっとだけ待ってて」
 不意に恵悟はそう言いながら、持って来ていたリュックの中に手を伸ばす。
「どうかした?」
「ごめん、薬の時間なんだ。すぐに飲むから」
 恵悟はリュックの中から小さな茶色の瓶を取り出し、中に入っていた豆粒ほどの白い物を幾つか口に入れ、持って来ていた水筒の水で流し込んだ。ここからでも分かるほど、瓶の中からは鼻を突くような苦い臭いが漂ってくる。生まれてからほとんど薬を口にしたことのない僕にとって、そんな臭いのするものを当たり前の顔で飲める恵悟には驚きを隠せなかった。
「薬って、風邪でも引いてるの?」
「いや、生まれつきあまり体が丈夫じゃないんだ。今は何ともなくても、ちゃんと薬を飲まないとすぐに体調を崩しちゃうからね」
「なんか大変だね。そんなの飲み続けなきゃいけないなんて」
 ああ、だから恵悟は同い年に見えるくらい体が小さいのか。そんな事を僕は密かに思った。