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 翌日も恵悟はあの原っぱへ現れた。と言うよりも、僕が来た時には既に恵悟はそこに居て僕を待っていた。これには僕も意表を突かれ、驚かざるを得なかった。そのせいか、打ち解けているものとは思っていても、最初にかける言葉に困ってしまった。
「早いね。いつ来たの?」
「一時間くらい前だよ」
 そうしれっと答える恵悟に僕は思わず苦笑いを浮かべてしまう。明日も来るからとは言ったけれども、その僕を一時間も平然と待っているとは思いも寄らなかった。人間が待っていられる時間はもっと短いと聞いたことがあるけれど、恵悟はそれに当て嵌まらないのだろうか。
「じゃあ随分待たせちゃったのかな。」
「大した事無いよ。それに、暇潰しは持ってきているから」
 そう恵悟が見せてくれたのは一冊の小冊子。人間の本はきちんと製本されているので、紙が少し変色してはいたけれど普段里で見るようなものより遥かに綺麗だった。
「それは何の本?」
「フランスの詩集だよ。最近流行ってるんだ」
「外国の本?」
「その日本語訳。原語は流石に読めないから」
 麓の町を遥かに越える所に都会があり、そこから更に先には海があって、その彼方には日本とは違う国がある。僕にとって外国の認識はそんな程度である。フランスという国名も聞いたことがあるような気がするだけで、分かっている事は何もない。
 とにかく、そういう未知の凄い本を読んでいる、それだけで僕は恵悟はやはり都会の人間なのだと羨望を抱いた。
「都会じゃ普通にそういうのみんな読んでるんだ?」
「そうでもないよ。僕は今まで遊び友達がいなかったから、自然と読書が趣味になっただけだから」
「読書って遊ぶのより楽しい?」
「さあ、あんまり考えた事はないから。小太郎は本は読まないの?」
「僕は大体読み書き出来ればそれで十分だよ」
 今日は、恵悟が見たいからと約束していた、山腹の滝へ案内する事になった。僕の足にはさほど遠くは無いのだけれど、恵悟はあまり山道には慣れていないし、また昨日と同じ大きなリュックを背負っているから、帰りの事も考え早めに出発する。恵悟は同い年と見間違う程度の背丈しかないのに、どうしてわざわざこんな大きなリュックを背負って登って来るのか気にはなったが、その中には人間のお菓子が詰まっているから、それ以上の事は気に留めなかった。
「どれくらいかかるの?」
「半日もかからないよ。それに、ほとんど道が平坦だから楽なもんだし。ここまで来るのと大差無いさ」
「じゃあ僕には結構きついかも」
「まあ、その時は休みながら行けばいいさ」
 恵悟を連れながらふと、恵悟が決められた時間に飲んでいる薬の事を思い出す。恵悟は僕とは違って体が弱いのだ。それがどれだけ不便な事なのかは良く分からないけれど、少なくとも僕よりずっと体力が無いことは確かだ。
 恵悟を連れ立ち目的地の中腹に向けて歩いていく。比較的藪や岩の少ない道を選びながら進んでいくものの、やはり恵悟には体力的に厳しいせいか程なく足取りが鈍っていった。リュックを代わりに背負い、足場の悪い小川や坂道は手を引いてあげながら進むが、一行に足取りは軽くならない。それでも太陽が真上から少し傾いた頃には、なんとか目的地に辿り着いた。普段の倍以上時間はかかっただろう。
「ほら、あれがその滝だよ。今日は水が多いみたいだ。水しぶきがここまで飛んで来る」
 目的地であるその滝は、普段よりも仰々しく水しぶきをあげながら流れていた。顎を真上まで持ち上げてようやく見える崖の先から、一気に真下の池まで注ぎ込むその滝。滝の幅は子供が二人三人が簡単に隠れるほど広く、迂闊に手を伸ばせば体ごと飲み込もうとする勢いもある。池の底は長年滝に削られているため恐ろしく深いらしく、滝の裏も岩肌がえぐるように削られている。池の主だとか山賊の宝物だとか、そういう言葉を連想してしまう風景だ。
「うわ、本当だ。こんなの今まで見たことないよ。凄い音。大声出さないと聞こえないよ」
「都会には滝なんて無いの?」
「あるにはあるけど、もっと小さいやつだよ。お坊さんなんかが滝の下に入って水に打たれる修業があるんだけど、それぐらいの。ここでやったら、確実に溺れちゃうね」
「確かに。相当深いらしいから、きっと上がって来れないよ」
 僕達は足元に気をつけながら滝とは反対側へ岩場を下り、池とそこから流れて行く川の河原に腰を下ろした。恵悟は相当疲れているらしく、早速川の水をすくって飲み、顔を洗った。滝から落ちてきたばかりの水は真夏でも冷たい。汗ばんだ顔を洗い流した恵悟は心底気持ちよさそうだった。
「ああ、なんか生き返るな。それに天然の水って美味しいね。初めて飲んだよ」
「都会じゃ川は流れてないの?」
「あるけど汚くて飲めたものじゃないよ。普通は水道から飲むんだ。田舎でも水道くらいあるでしょ?」
「いや、僕んちは井戸だから」
 冷たい水で一心地つくと、恵悟はリュックから大きな風呂敷包みを引っ張り出した。中には数個のおにぎりと漬物が入っていて、僕もそれを分けてもらって昼食にした。ふと僕は、生まれて初めて外で誰かと昼食を食べた事に気が付いた。いつもは一人で魚を取って焼いたり、後は果物や野草を取って食べている。それが当たり前の事で何とも思っていなかったけれど、こうして恵悟と楽しく食べているとこれまでの自分は随分淋しいものだったんだと思うようになった。
「ねえ、あの滝の裏って何かある?」
「一応入れるけど、何も無いよ。それより、足場からそこら中に苔が生えてるから、滑って転んじゃうよ。そしたらもう助からない」
「僕は泳げないし、それは嫌だな。やめとこう。でもただ見てるのが勿体ないや。ああ、カメラでも持ってくれば良かったな」
「カメラ?」
「知らない? 最近イギリスから小型のが輸入されるようになったんだよ。このくらいの箱でさ」
「それは何をするものなの?」
「レンズがあってね、それ越しに見える風景なんかを撮影するのさ。それで後から写真に焼くと、見た通りの風景が写ってるんだ」
 そう語る恵悟だったけれど、僕には半分も理解出来ていなかった。ともかく、そのカメラという物は風景を写し取るものらしい。筆も無く写生出来る便利な機械なのだろう。さすが人間でも都会に住んでいる人は感覚が違う。そう僕は感心する。
「さて、お腹も膨れたし、そろそろ少し遊ぼうよ。この辺なら入っても大丈夫だよね?」
「川の方に近づかなきゃ大丈夫。あと、底にある石が意外と滑るから」
 恵悟はすぐさま靴紐を解いて靴下を脱ぎ捨てる。僕もそれに遅れず鞋を脱いだ。やっぱり足も生白いな、と僕は恵悟の足と自分の薄汚れた足を比べて思った。
「そうそう。今日は滝に行くっていうから、あれ持って来たんだ」
「あれ?」
 そう言って恵悟がリュックから引っ張り出したのは、青竹色をした小さな何か。調度それは二つあり、その内の一つを僕に持たされた。手触りは冷たくどうやらブリキで出来ている事が分かった。形はいわゆるピストルだが、持ってみた感触は軽い。
「これをね、ここからこうして水を入れて」
 恵悟はこの玩具のピストルを川の中へと沈め、またすぐに取り出すとそれを僕の方へ向けて引き金を引いた。
「わっ!」
 次の瞬間、先から細く長い水の線が吹き出して僕の頬を濡らした。
「これ買ったばっかりなんだ。結構飛ぶだろ?」
「え、これってここから水が出るんだ?」
「水鉄砲だよ。ほら、小太郎もやってみろよ」
 そう促され僕も同じように川の中へ沈めて水を詰めると、先ほど自分がやられたように今度は恵悟に向けて打ってみた。すると驚くほどの勢いで水は先端から飛び出し恵悟へと命中する。
「な、簡単だろ?」
「凄い! 本当にこんな玩具があるなんて初めて知った!」
 持っている凄いものは、お菓子だけじゃないんだ。僕は恵悟を改めて羨望の眼差しで見た。