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 よりによってこんな時に。
 僕は何度も自分を責めながらひた走った。太陽はもう間も無く真上に昇ろうとしている。目が覚めたのは普段ならとっくにあの待ち合わせ場所に着いている頃合いで、それからろくに朝ご飯も食べず飛び出して来て今に至る。完全に遅刻である。生まれて初めての寝坊だった。昨夜は恵悟の事でほとんど眠れなかったから、多分そのせいだと思う。母にどうして起こしてくれなかったのかと突っ掛かりそうになったが、寝坊してはならない理由は建前上存在しないのだから、それも飲み込むしかない。出来るのは、ただひたすら急ぐ事だけである。
 迷わせの林を抜け、普段は通らない急斜面の山肌を一気に駆け降りて時間の短縮を図る。それでも遅れた分は取り戻せない。藪ですねを引っ掻いたりもしたが、気にも留めずにただひたすら急ぐ。
 既に恵悟はいつもの所で待っているはず。しかし、一向に現れない僕に愛想を尽かして帰ってしまっていたりはしないだろうか。焦りと共に嫌な想像が脳裏に浮かび、一層僕を焦らせる。
 ようやく待ち合わせ場所の原っぱに到着すると、いつもの岩の所に見慣れた背中がぽつりと小さく座っているのが見えた。僕は全身に安堵が走るのと同時に大声で呼び掛けた。
「ごめん、遅くなった!」
 その声に背中はぴくりと一度揺れ、ゆっくりとこちらを振り返る。そこには恵悟の笑顔があった。けれど、普段よりも精彩さを欠いた力の無い笑顔だった。
「おはよう、遅かったね」
「ごめん、ちょっと寝坊しちゃって」
「目覚まし時計はセットしていたの?」
「いや、持ってないよ。いつも無くても起きられてたから」
「じゃあ今度あげるよ」
 そう言って恵悟は座っていた岩から腰をあげた。
 目覚まし時計を貰ってもうちでは使う事は出来ない。出所からすぐに露見してしまうからだ。それに時計は安いものじゃないのだから、簡単に貰い受ける訳にもいかない。けれど、恵悟の顔を見ていると断りを言い出しづらかった。そんな事でも、恵悟を否定するようで口に出せないのだ。
「今日はどうする? 何も考えてなかったけど」
「少し暑いから、あの滝に行こうよ。小太郎も涼んでからの方がいいでしょ?」
 恵悟に指摘されたように、僕は里からずっと走って来たから全身が汗だくだった。走っている時は気が付かなかったけれど、こうして足を止めると汗の不快感は意外に無視が出来ない。早速僕らは滝の方へと向かった。
 最初に恵悟を案内した時ほど時間はかからず、僕らは滝の川溜まりへ到着するした。早速僕は冷たい水をすくって顔を洗い喉を潤す。暫く水に足をつけていると汗もすぐに引いていった。井戸の水も冷たいけれど、源流に近いこの水の方がずっと気持ちが良い。何より開放感がある。
 恵悟も川縁に屈んで水で顔を軽く湿らせた。歩いた距離はさほどでもないけれど、やはり恵悟にはきついのか僕よりも汗ばんでいる。
「ねえ、小太郎。僕さ、やっぱり考えたんだ」
「何が?」
 不意に恵悟は顔を流しながらそう僕に話し掛けてきた。
「昨日、言ったよね? 都会で何かあったのかって」
「うん」
「話しておこうと思う」
「うん」
 打ち明けてくれる。それを聞いた僕は複雑だった。僕が昨日あんな事を言ったせいで、嫌々話そうとしているのではないのか。まず頭に浮かんだのはそんな考えだった。そして、一体何があって何を思い悩み何を打ち明けようとしているのか。雰囲気からしても、そう単純な事では無いはずである。
 親身になるべきか、自然体でいるべきか。自分の聞く姿勢に悩みつつ、返答は恵悟の表情が川に向かってうつむいたままだから、返答は朴訥になってしまった。
「一つお願いがあるんだけど」
「何?」
「これ聞いても、友達のままでいてくれるよね?」
「当然じゃないか。縁切る理由なんか無いんだから」
 声が上擦り不自然な返事になってしまう。そんなお願いをされるとは思ってもみなかったからだ。いよいよ僕は恵悟の言葉に体を硬直させ、川の中へ立ち尽くす。
「僕がさ、こっちに来た理由は覚えてるよね」
「生れつき体が弱いから、でしょ? いつも薬飲んでるし」
「そう。でもそれが半分だって、この間言ったよね」
「もう半分は聞いてないけど、そうだったね」
 ならそのもう半分は一体何なのか。逐一問い返したかったけれど、僕は恵悟のペースに任せて聞き役に徹する。
「僕ね、学校にも友達がいないんだ。いや、いないだけならその方がマシなんだけれど」
「いない方がって」
「いるのはね、みんな敵なんだ」
「敵?」
「みんな、僕が学校へ来るといつも嫌がらせをしてくるんだ。それだけじゃない、お金を取られたり、物を隠されたり、酷い時は服まで取られる」
 恵悟の言っている事がすぐに理解出来なかった。何故恵悟がそんなことをされるのか、僕にはまるで検討もつかなかったからだ。
「やり返したくても、僕はこの通り、体が弱いでしょ。ちょっと小突かれるだけでどうしようもなくなる。だから、それを面白がって意味も無くやられる事もあるんだ」
 恵悟の声が少しずつ震え始めている事に気が付いた。だけど僕はそれに気が付かない振りをしてしまった。恵悟に対する気遣いではなく、どう接すればいいのか単純に分からなくて線を引いてしまったのだ。
「だからさ、向こうにいる時はいつもこうなんだ」
 そう言って恵悟が左腕を捲って見せた。僕よりもか細くて色白の腕、しかしそこには赤紫色の痣が出来ていた。一瞬、何かの汚れだと思った。そんな鮮やかな色を僕は見たことがなかったからだ。それだけに、書き物ではないと分かった直後には息を飲んでしまった。
「僕は……本当に都会になんか戻りたくないんだ。こっちでずっと暮らしたい。それなら小太郎と毎日遊べるし、こういう目にも遭わなくて済む。でも……」
 それは出来ない。理由は知っている。恵悟の父親が、都会の学校を卒業させたいからだ。
 何故、恵悟の父親はそこまで都会の学校にこだわるのか。それが、恵悟がこういう目に遭わされていても、それよりずっと大事な事なのだろうか。少なくとも、僕の父ならば絶対にその学校へは行かせないようにすると思う。人間の親とはこうも考え方が違うものなのだろうか。
「また来月になったら、僕は都会に行かなきゃいけないんだ」
「また? 何日も来れなくなるの?」
「うん……。下手をすると、今度はもっと長いかもしれない。このままじゃ学校を卒業出来なくなるからって」
 しかし、都会の学校に行くという事は、その間毎日ずっと今言ったような事が起き続けるという事ではないか。そして誰の助けもなく、ただひたすら恵悟はじっと堪えるしかない。だけど、そんな事がずっと続くはずがない。恵悟は生まれつき体が弱いのだから。
 僕は震えあがった。何故震えているのかも分からないほどだった。多分、純粋に衝撃的だったんだと思う。僕にとって憧れの世界だった人間の町で、まさかこういう事が起こるなんて、今まで想像も出来なかったのだ。
「どうしたら、いいんだろう……僕、もうあんなところ行きたくないよ……」
 そう涙声を振り絞り、恵悟はそのまま言葉を話さなくなった。僕は川の中に足を浸けたまま、恵悟と同じように言葉を話せなくなっていた。