BACK

 その日は朝から空気が湿っていた。外に出てみると地面がぬかるんでいて足元が取られそうになる。軒下には蜘蛛が濡れててらてらと光る巣を張っている。いつもの調子で飛び出せば、うっかりからまってしまいかねない位置だ。
 恵悟もいないのであれば、とても外出する気にはなれなかったと思う。だが僕は別の目的があって、今日も朝食の後に里から出掛けていった。目的は、里に来る途中の森の外れにある一角。そこには、雨あがりの時にだけ生えるとあるキノコが生息しているのだ。
 揃えなければいけない材料は、雉鍋を作るよりもずっと多い。薬草などは群生している所を調べればすぐに揃えられるものの、種類が片手の指より多いのではそうなまなかにはいかない。それに、どうしてそんなものが必要なのかと首を傾げたくなるような物も少なくない。混ざり物の無い琥珀だったり、漆の樹液だったり、中には老衰した狒々の骨なんてものもある。だけど、天狗の術も何も知らない以上は、書物にある通りに従っていくしかない。
 ここ一週間、ずっと山中を駆けずり回っていた。見たことも聞いたことも無いような材料も幾つかあって、それが何なのかそれとなく聞き込んだり、手に入れるために危険な岩場も幾つも渡った。一度ははぐれ狼に遭遇したこともある。だけど、そのおかげで材料もほとんど集まった。獣の骨や奇形のトンボなど、今までほとんど見たことも無いような材料も、どういう訳か運良く見つける事が出来た。この幸運はきっと、僕のしている事が正しいと天に認められている、そんな気分にもなった。
 普段は真っ直ぐ進む道を外れ、藪の中へ分け入っていく。さすがに雨上がりのせいで草木が濡れているため、僕もあっという間に腕や脛を濡らしてしまった。足元も苔か泥か分からないものが入り混じっていて実に歩きにくい。けれど、目的の物が手に入ると思うと自然と足取りは軽くなっていった。
 残る材料はあと僅か。その内の一つが今日のキノコだ。これは運の良し悪しよりも、単純に天気に左右されるから厄介だと思っていた材料だ。梅雨はとっくに終わったけれど、あまり間を置かずに降ってくれたのは幸運である。無論、僕は必ず降ると思っていたけれど。
 程なく目的の地点へ到着する。前以て下見をし、ある程度どの辺りに生えてくるだろうかと目星はつけている。早速僕は片っ端からそれを探り始めた。
 目的のキノコは溺れ茸と言って、その名の通り特に抜かるんだ所や水溜まりの中から生えてくる事もあるという変わったキノコだ。そのため、水捌けの悪そうな地形に目星をつけていた。雨が降れば水が溜まり、そういった場所から生えてくる可能性が高いと睨んでいる。
 妙にでこぼこの多いその一帯には、予想通り大きな水溜まりが幾つも出来ていた。普段歩くなら確実に避けて通るような光景だが、それこそ溺れ茸が好んで生えてくる場所である。
 僕は丹念に水溜まりに目を凝らした。だけど水溜まりの水は濁っているため、手を突っ込んで探らなくてはいけなかった。雨上がりの水溜まりには色々な虫が棲んでいるから、意図せずしてしがみつかれる事がある。それだけなら別に驚かないけれど、問題は蝉の幼虫に突然噛み付かれる事だ。血は出ないものの、これにはいつも驚いてしまう。
「お、これか?」
 しばらく水溜まりを幾つか探っていると、ふと濁った水面から頭を覗かせる黒いものを見つけた。潰さないようにそっと突いてみると、ぶよぶよとした柔らかい感触が返ってきて、それは左右にゆらゆらと揺れる。手を入れて根本辺りを探ってみると、水面に覗いた笠の見た目よりも太い幹の感触が感じられた。間違いない、そう確信した僕は早速それをそっと水溜まりの中から引き抜いた。
「やった、ついてる。こんなにあっさり手に入るんだもんな」
 僕は一杯の満足感でそれを撫で、こびりついた泥を指先で擦り落とした。ぶよぶよとした普通のキノコには無い感触は不気味だったけれど、これも目的の一つと思うと不思議と気にはならなかった。僕は潰してしまわないようにそっと懐へしまい込んだ。
 失敗した時の事にも備えたいから、もう少し見つけられるだけ採って行こう。僕は再び水溜まりを捜索し始める。
 それから間もなくだった。
「あれ、小太郎じゃないか?」
 突然の声に僕は驚きで飛び上がってしまった。すぐさま振り返ると、そこに立っていたのは籠を背負った惣兄ちゃんだった。変な所で出くわしてしまった。僕はみるみる心臓を早鳴らす。
「惣兄ちゃん? どうしたの?」
「キノコ採りだよ。雨上がりだからね。小太郎こそ、いつもこんな所で遊んでるのかい?」
「いや、今日はたまたま通り掛かっただけ」
 そう言いながら視線を足元の水溜まりへ落とし、
「ほら、アメンボ。あんなに大きい」
 虫遊びに興味があるふりをして誤魔化す。水溜まりに集まる生き物になど興味は無いのだけれど、大人にはそういう棲息の趣味の違いは分かったりはしない。
「なんだ、これくらいのならあっちでも見かけたぞ」
「ホントに? じゃあ、そっち行ってみるかな」
「そうしとけ。それにさ、一応言っとくけど。こういう茂みの中なんかは気をつけといた方がいいよ。変な誤解されるからさ」
「誤解?」
 思わぬ言葉に僕は首を傾げる。
「最近さ、里の周りで薬草なんかが妙に減ってるらしいんだよ。ほら、摘む時って全滅させないようにある程度残しておくもんだろ? そうじゃない時があるらしいんだ。まさか獣が食べるはずもないし、かと言ってこんな所まで人間が入り込むはずもないだろうし」
「薬草って、誰かが溜め込んでるのかな?」
 何も知らない振りをし、思わず自分の事そのものを口走ってしまって、僕は酷く慌てた。そういう発想をするのは犯人以外に他ない。僕は祈るような気持ちで惣兄ちゃんの顔を見たが、惣兄ちゃんは特に変わった様子は見せなかった。
「あんまり里の者は疑いたくないけどな。まあ、そういう事なんだろう。小太郎ももし見掛けたらこっそり教えてくれよ」
「うん、分かった」
 そう言い残し、僕は藪の外の方へ逃げるように駆けていった。これ以上惣兄ちゃんと話をしていると、うっかりボロを出してしまいそうで怖かったからだ。
 慎重にしていたつもりだったけれど、僕のしている事は目立っているらしい。辛うじて僕だとばれていないのが救いか。
 これからはもっと周囲にも目を配って慎重になろう。逃げながら僕はそう思った。