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 恵悟が再び都会の学校へ行ってしまったのは、それから二週間も経たない頃だった。いよいよ出席日数が足りなくなってきたとかで、前よりも頻繁に長く行かなければならなくなったそうだ。恵悟は都会の学校になど未練は無いのだけれど、恵悟の家族はそういう訳ではない。それで嫌々でも行かなければならない、そう恵悟は苦笑いしながら語っていた。
 また僕は一人遊びをする毎日に戻ってしまった。これまでは、一人遊びをしていたのが長かったせいだろう、山の中を一人きりで散策する事を意識したりしなかった。深山には狐や鹿といった動物も棲んでいるから、自分の遊び相手に見立てれば同じ事。だから、一人遊びと誰かと遊ぶ事はさほど違いは無いと思っていた。けれど、恵悟が都会に行ってしまうようになって、本当は違うのだと僕は思い知らされた。友達を追いかけ回すのと、動物を追いかけ回すのでは、全く楽しさが別なのだ。動物とでは意思の疎通が一方的で、ただ独り言を言っているだけに近い。だけど、恵悟は違う。こちらのする事で、笑ったり怒ったりする。その差が、今の一人ぼっちの淋しさの理由なのだろう。
 早く恵悟は帰って来ないだろうか。その日もそんな事を考えながら、一人で山の中を散策していた。昼頃になって、今日は何を獲って食べようかと考え始めていると、
「お、此処にいたのか」
 不意に現れたのは父親だった。まさかこんな所で出くわすなどと思ってもいなかった僕は、思わずぎょっとしてその場で固まってしまう。
「え、何? こんなとこでどうしたの?」
「こんな所で、ってな。お前こそ、一人でこんな所で遊んでいるのか?」
 今居る場所は、あの大きな滝の見える川縁。時折恵悟と水遊びをする場所だ。
「いや、魚でも取ろうと思って」
「こんな上流でか? まったく、魚取りもちゃんと教えてやらんと駄目だな」
 そう笑う父親に続いて、僕もぎこちなく笑って不自然さを誤魔化す。普段の遊び場に親が来るのは非常に大事である。きっと何か良くない事でもあったに違いない。そう気持ちを盛り下げつつ、ともかく恵悟がいる時じゃなくて本当に良かった、と自分に言い聞かせる。
「さて、今日はもう遊びはやめだ。今からすぐ里に戻るぞ」
「どうして? 何かあったの?」
「長老が御呼びなんだよ、お前を」
「えっ、長老が!?」
 長老が? 僕を? 何故?
 思わぬ父の言葉に僕は素直に声を出して驚いてしまった。長老は一族で一番偉い方だ。僕のような子供がおいそれと話しかける事も出来ないのである。そんな方が僕を名指しで呼んでいるなんて。どう想像しても、悪い事しか思い浮かばなかった。
「お前、何か悪い事をやったんじゃあるまいな」
「ま、まさか!」
「冗談だって。真に受けるなよ、本当みたいじゃないか」
「そうだけどさ……」
「まあそういう事だから、急いで戻るぞ」
 事態の意外さの割に口調の軽い父親が逆に気掛かりだったが、長老に呼ばれているのであれば理由も無しに無視する事は出来ない。僕は何食わぬ顔を意識しながら父親に従って、少し早い家路に着くことにした。
 一体どんな用事で僕は呼ばれたのだろうか。長老に呼ばれるのだから、当然只事ではない。まさか、恵悟の事が知られてしまったのではないか。それとも、蔵書を勝手に読み漁った事だろうか。
 僕は不安でならなかった。思い当たる節があまりにも多過ぎるからだ。
 恵悟の力になってやる。その目的を達成したからかもしれない、今になって急に自分がしてきた事が恐ろしくなってきてしまった。
「あのさ、父さんは一緒に来るの? 長老のうち」
 道すがら、少しでも不安を紛らわせようと僕はそんな事を父に訊ねてみた。
「当たり前だ。もしお前が何か粗相でもしでかしたら大変だからな」
「僕はちゃんと言う事は聞いてるよ。一人でも大丈夫だよ」
「そう、それだ。お前は大人の言う事は聞いても、目上に対する敬語が出来ておらん。今みたいな口を長老に利いてみろ、一晩正座したまま漬物石を抱かされるからな」
 ただでさえ足の痺れる正座にそんなものを付けられてはひとたまりも無い。自分がその罰を受けている様を想像し、背筋が震え上がった。
「だからな、父さんもちゃんと横で聞いてるからな。くれぐれも恥ずかしい真似はするんじゃないぞ」
「それは分かるけどさ、僕は敬語とか習った事無いんだけど」
「そんなもの、父さんだって習った事はないぞ。そういうのは日常で自然に覚えるもんだ」
「無理だよ、そんなの。友達同士で敬語なんか使わないし」
「そうか? お前は意外と頭が良いからな、大人が教えなくても色々と覚えていそうなんだがなあ」
 正にそれは、この間からこっそり勉強した術の事である。意図していなくとも秘密を暴露された気持ちになり心臓がどきりと高鳴る。
「鳶が鷹を産む訳ないよ。蛙の子は蛙に決まってるじゃない」
「父さんはそういう切り返し方もパッとは浮かばないんだよなあ」
 と父はさも愉快そうに笑った。
 長老から息子が呼び出されているというのに、何て暢気なのか。父は何かと危機感や緊張感が足りないのではないだろうか。あまり物事を先の事まで慎重に考えないのは、食中りで死んでしまった御先祖様同様、我が家の家系なのかもしれない。そんな事を思った。