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 長老の屋敷は里からやや外れた小高い場所に建っている。おおよそ里の中からならどこでも見つけられる立地だ。此処に来る事はそう滅多に無く、ほとんどは年始の挨拶と、定期的に行われる人間の町へ買い出しに行った大人達を労う寄り合いぐらいだ。小さな頃から親にはみだりに近づいてはならないと言われて来た経緯もあり、同じ里の中にありながら此処ほど馴染みの無い場所は他にないだろう。
 父親と共に正門から屋敷の中へと入る。その門構えはやたら大きく見えた。自分が長老から名指しで呼ばれているからだろうか、普段なら気にも留めないのにやたら威圧的に感じてならなかった。
「どうぞ、こちらからおあがり下さい」
 屋敷の家政婦さんに案内されたのは、よりにもよって屋敷の母屋だった。だだっ広い玄関から長い廊下を延々と歩き、そして通されたのは自分の家よりも遥かに広い板間。僕達親子以外にそこには誰の姿も無く、その真ん中に二人だけ並んで座るのは妙な気分だった。雨戸や襖は全て開け放たれ、調度中庭が一望出来る。同時に、最近涼しさよりも冷たさが滲んできた秋風が入り込んで来るため、板間の上でただ座りながら吹きさらしになるのはいささか肌寒かった。
「うむ、待たせたな」
 やがて長老が音も無くやって来た。見た目はかなりの歳の老人なのだけれど、恰幅が良く白髪も色艶があるためか若々しい印象がある。ただ、立ち居振る舞いは今の所作だけでも分かる通り明らかに普通とは違っていた。音も無く滑るように歩くのは、単に歳を取って膝が上がりにくくなったからではないだろう。何か普通では理解も出来ない術か何かの効果かもしれない。
 長老が板場にでんと腰を下ろし胡座をかく。そこから少しばかり離れた所に僕達親子は並んで座った。足は崩すように言われたものの、父親は自分は崩しても僕には無言で崩すなと言ってくるので、僕だけは正座のままになった。
「小太郎、随分大きくなったものだな。今は幾つだ?」
「数え歳で十になります」
「そうかそうか。生まれた時はあまりに小さいもんで、なんぼも生きられんのではないかと思っていたが。五郎太の孫の事だけあるな。もっとも、あやつよりは好男子のようじゃが」
 そうにんまりと笑う長老に、僕も合わせてぎくしゃくと笑みを浮かべる。
 五郎太とは僕の御先祖、祖父に当たる人で、長老とは親友だったそうだ。一度も顔を見た事はないが、長老の口ぶりを真に受けたとするならば、僕と顔立ちはあまり似ていないのかもしれない。
「さて、小太郎や。今日お前を呼び付けたのは、何故だか分かるか?」
 どきり、と胸が高鳴る。
 直に切り込んできた本題に、体が自然と畏まり警戒を始める。まさか、やっぱり長老は僕がしてきた事を全て知っていて、その罰を与えるために呼び付けたのではないだろうか? 道すがら何度も思い浮かべてきた不安がまたも頭に浮かぶ。ただの取り越し苦労だと思いたかったが、状況がどうにもそれと重なってきた気がしてならない。
 とにかく今は、長老の出方を慎重に見た方がいい。そう判断した僕は、何も答えずに押し黙ったまま顔を俯けた。
「ふふっ、そう構えずともよい。おい、小五郎。お前は息子にわしの事をどんな風に言っておるんじゃ」
「いやあ、私はその、ありのままに言って聞かせているだけでして……」
「そうは見えんがな。まったく、わしは子供には優しいじじいのつもりなんじゃが」
 苦々しい笑みを浮かべる長老を前に、今度は父親が僕のように緊張する番だった。父は大人だけど、長老から見れば僕も父親もさほど変わらないのかもしれない。何となく父親と僕が同じ格好になっているような気がした。
「話が逸れたな。さて、小太郎。呼びつけたのでは他でもない。掟により、今日からお前には術の勉学を始めて貰う」
「術、ですか?」
「そうじゃ。まずはこれを授けよう」
 自分がわざわざ呼びつけられたのは、術の許しのためだったのか? その事については全く考えておらず、僕はどうしたら良いのか分からなくなり頭が真っ白になった。そんな僕に構わず、長老がこちらに差し伸べてきたのは一冊の真新しい書物だった。おずおずとそれを手に取り、表紙を軽く指でなぞってみる。新しい書物独特のつるっとした滑らかさが伝わってきた。
「それには基礎が記されておる。それを修めたなら次、それも修めたらまた次、と続く。お前が一人前になるまでな。さすればお前は初めて大人になったと見做される」
「は、はあ……。まずは基礎、ですね」
「なんだ、嬉しくはないのか? 早く術の勉強がしたいといつも言っているとわしは聞いていたのだが」
「いえ、その……ちゃんと覚えられるか自信が無くて」
「始める前からそれではいかんぞ。解らぬ事は小五郎にでも訊けば良い。もっとも、出来る限り己の力で身につける方が上等なのは言うまでもないがの」
 腹をさすりながら笑う長老、そしてそれに続く父。
 ともかく、まだ僕が掟を破った事はばれている訳ではなさそうである。何を置いても、それが一番の気がかりだったのだ。この分では心配していたほど状況は悪くは無いようである。僕は思わずつきそうになった溜息を慌てて飲み込んだ。
「そういう事だ。これからはしっかり励めよ」
 父がそう言って激励の代わりに僕の背中を勢い良く叩いた。あまりに強く叩かれ、僕はその場で咽てしまう。
 しかし、何も知らないのは幸せな事だ。
 笑う二人に向かって、僕は心の中でそう皮肉った。