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 長老から授けられた、術の基礎が書かれているその書物。僕はそれを持って出掛け、昼間は外で読むようにしていた。勉強とは言ってもうちの中で黙々とやるのは性に合わないし、それに恵悟がそろそろ戻ってくる時期だからだ。
「なるほどなあ……」
 いつもの待ち合わせ場所にある岩の上に腰掛け、朝から書物を読み耽っていた。基礎というだけあって、一族の生い立ちの概要や術の理屈などを大まかに解説する所から始まっている。漢字や難しい言い回しが少ないのも、僕ぐらいの歳を対象に考えているからだろう。
 この数日、半分ほどを読んでみた範囲での印象だけれど、確かに僕の知らない事は幾つもあった。そもそも僕は基礎も無く、御先祖様の残した蔵書で独学でかじっただけだから、基礎は無いに等しい。そんな知識で読んでも、一つだけこの書物が不思議に思う所がある。それは、あまりに簡単過ぎるという事だ。まだ基礎だからかもしれないし、今まで読んでいたのが御先祖様の蔵書だからそう思うのかもしれない。ただ、この物足りなさはどちらでもうまく言い表せない。
 御先祖様の蔵書と子供向けの基礎本とで、いちいち比較するのが間違っているのかもしれない。あの蔵書の中身は高度で使い方を間違えれば危険な事に繋がるような術ばかりだったから、基礎本にあるようなそよ風を起こす術などが温く感じるのだろう。
 こんな温い基礎なら、本気でやれば三日で全部覚えられる。なら、さっさと覚え次々進み終わらせてしまった方が、恵悟との時間を取られずに済むだろう。
 左手をくるくると回し、基礎の術でもあるそよ風を作りながらそう僕は思った。
「おーい、小太郎!」
 そんな時、不意に聞こえて来たのは聞き馴染んだ声だった。はっと顔を上げて山道を見下ろすと、そこには恵悟がこちらへ登りながら手を振っている姿があった。
「恵悟! 今日帰ってきたんだ!」
「ついさっき着いたばかりさ。うちにも寄らずに来ちゃったよ」
 僕はすぐさま岩から飛び降りて恵悟の元へと駆け寄った。恵悟は今までと違って、実に晴々とした明るい表情だった。それだけで、都会の学校ではうまくいったのだと見て取れる。僕の考えは見事的中したのだ。
「小太郎から貰ったあれ、凄く役に立ったよ」
「良かった、じゃあもう二度と怪我したりする事はなくなるね」
「怪我だけはね。上履きとか机にされる悪戯はまだだけど、それもその内どうにかしてみせるよ。ああ、こんな調子ならまた都会に戻るのが待ち遠しくもなってきちゃうな」
「冗談はよしてよ。恵悟がいないと毎日つまらなくて寂しいんだから」
「分かってるよ。僕だってそれは同じさ」
 そう笑う恵悟に、僕も釣られて同じように笑い返した。
 しかし。
 何故だろう、ふと僕の頭の片隅に、言い知れぬ小さな不安が浮かび上がった。恵悟にとって都会を住みやすくしてしまった、だから恵悟の気持ちがまた都会に戻ってしまうのではないだろうか。きっとそんな不安だと思う。こんな田舎よりもお洒落な都会暮らしの方が、都会生まれの恵悟にとっては性に合うのではないか。前にも少し考えたその不安が再び込み上がって来た。
「今日はもうお昼過ぎちゃってるからあんまり長居は出来ないんだけどさ」
 僕達はいつもの岩の上に移った。恵悟はいつもにも増して重そうなリュックを下ろすと、早速開けて中を右手でまさぐった。
「そうそう、これ。前にも持って来たチョコレート。一緒に食べよう」
「わ、また持ってきてくれたんだ。ありがとう、僕また食べたかったんだよ」
「これくらい大した事ないよ。あ、それとお昼御飯は食べた?」
「そういえば、まだ食べてないや」
「だったら丁度良かった。僕もまだなんだけどさ、これ途中で買って来たんだ」
 続いて恵悟がリュックから取り出したのは、二つの紙で出来た箱。蓋には沢山の文字や絵が黒や黄色のインクで描かれている。特に目を引くのは、取り分け大きく描かれている人物画。その風貌は独特で普通の人には見えなかった。何となく父親ぐらいの歳の男だとは分かるのだけれど、一体どこの誰で蓋に描かれているのか、まるで見当がつかない。
「これは何? サンドウ井ッチ、なんて書いてるけど。あ、でもなんかいい匂いがする」
「これは駅弁って言ってね、汽車の中で食べるために駅で売っているんだよ。まあ開けてみてよ」
 ようするにお弁当という事か。だけどサンドウ井ッチとは何だろうか? そう首を傾げながら、恵悟に言われるがまま蓋を開けてみる。
「え、これ何?」
「サンドウィッチって言うんだよ。まだ都会でも珍しい食べ物なんだ」
 箱の中は僕が想像していた当たり前のお弁当とはまるで異なっていた。白いふわふわした四角いものが、縦にぎっしりと敷き詰められている。その間には肉や野菜といったものが挟まっているが、お弁当には欠かせないはずの御飯の姿がどこにも見つけられなかった。
「ねえ、これ御飯はどこにあるの?」
「あ、小太郎ってパンも知らないんだ?」
「パン?」
「外国の食べ物でさ、まあ日本で言う所の御飯みたいなものだよ。小麦粉を練って焼いて作るんだ。で、サンドウィッチっていうのは、それを切って間に具を挟んだものだよ」
 恵悟は自分の分の箱から一つ、その白いものを取り出した。パンと呼ばれる白い四角いものが二つ、その間には何か食べるものが挟まっている、どうやらそれがおかずに当たるらしい。
「食べてみてよ。すごくおいしいから」
 そのまま恵悟はがぶりと半分ほど噛み付いて食べた。うまいうまいと恵悟は顔を綻ばせて飲み込むと、続けて残り半分も口の中へ入れてしまう。僕もそれに倣い、恐る恐るではあったけれど、箱の中から一つ取り出して思い切って噛み付いてみた。
「……あ、おいしい」
「でしょ? でしょ?」
 食感は、初めはふわっとしていて、硬い歯ざわりが後に続くものだった。その硬い歯ざわりと同時に、間に挟まっている具の味が一気に口の中に広がる。それはやや塩辛いようにも思ったけれど、挟むパンが意外にもうまくそれを和らげてくれて丁度良かった。僕はすぐに残り半分も食べると、また続けて二つ目も取って食べ始めた。とにかく鮮烈だった。こんな食べ物が世の中にはあるなんて。食事というものの心象を覆された気持ちにすらなる。
「おいしい! 本当においしいね、これ!」
「でしょう。これ、すぐに売り切れちゃうから、なかなか手に入らないんだ」
「そうだよね。こんなにおいしいなら、誰だって欲しがるもんね」
 そんなに珍しいものを恵悟は僕の分まで苦労して買って来てくれたのか。そう思うと僕は嬉しくて仕方なかった。今まで恵悟には色々珍しいものを見せて貰ったけれど、これほど強烈に印象付けられるものは無かっただろう。こんなにおいしくて、しかも恵悟がわざわざ苦労して買って来てくれたのだ。まずいであろうはずがない。
「ねえねえ、この間に挟まっている桃色のものは何? 何かの肉っぽいけど」
「ああ、それはハムっていうんだよ。豚肉の塩燻製。これ、外国から輸入しているんだぜ」
「そっか、これも外国の食べ物なんだ。凄いなあ、おいしいなあ」
 それから僕は夢中で食べ続けて、あっという間に箱の中が空になってしまった。空腹が満たされた満足感もあるのだけれど、それ以上に気持ちの満足感が大きかった。本当においしいものを食べると、案外さほど量は無くても気持ちは満足するのかもしれない。そんな事を考えた。
「お茶も持って来てるよ。飲む?」
「うん、ちょうだい」
 恵悟はまたリュックの中に手を突っ込み、そこから水筒を取り出した。金属で出来た水筒も今では見慣れて来たけれど、よく考えてみたら里にはこんな凝った水筒は存在しない。せいぜい竹を切り出して作る程度だ。やはり里と都会は随分と違う世界なのだ、そう改めて実感する。
「ん?」
 ふと、その時だった。何気なしに見た恵悟のリュック、その隅に妙な汚れを見つけた。
「あれ? ここ、汚れてない?」
 そう恵悟に言いながら僕もリュックへ近づいて汚れを検める。汚れは赤茶けた染みだった。それも意外と広く広がっている。
「あ、あれ? 本当だ。どうしたんだろう、何か木の実でも引っ掛けて潰したのかな?」
「ハマナスとか途中に生ってるからね。もしかしたらそれかも」
「なるほど。じゃあ帰ったらちゃんと洗わないと」
 そう笑う恵悟だったが、何がおかしいのか良く分からなかった。ただ僕だけ憮然としているのもおかしいので、それに併せるように笑ってみせる。
 リュックの染みなら、中で何かが漏れている事もあるのではないだろうか? そんな事も考えたけれど、恵悟が木の実の染みだと言うならそうなのだろうと思った。